(承前)
映像作品に身も心も打ちのめされる体験は、生涯にそう何度もあるものではない。まして観ていて金縛りにあうような機会は、小生にとってこの《夏の歌》が生まれて初めてだった。
こよなく美しい音楽が偏屈で気むずかしい盲目の老作曲家のなかに隠されているという皮肉な現実。複雑な管弦楽曲を口述筆記によって一音ずつ書き留めていく作業の、想像を絶する困難さ。四肢の自由を失った老人がまるで石炭袋か何かのように肩に担ぎ上げられ、部屋から部屋へと移動させられる光景の目をそむけたくなる無惨。
「フレデリック・デリアス」「エリック・フェンビー」という固有名詞を耳にしたのも初めてなら、作曲家の住まいをふらりと訪れ、自然児のように天衣無縫にふるまう古くからの友人の存在にも目を瞠った。デリアス曰く、「あいつはパーシー・グレインジャー。時には作曲もする」。思えば小生のグレインジャーへの熱烈な関心も、この映画から始まるのだ。勿論、この映画を監督した「ケン・ラッセル」も全くの初耳の存在だった。あらゆる出逢いがこの一本のTV映画に集約されていたのだ。
とりあえず小生がとった行動は、このデリアスの作品を収めたLPを探すことだ。調べてみたら、当時(1970年現在)入手できた国内盤はたった一枚だけ。トマス・ビーチャムが指揮した《デリアス/管弦楽名曲集》(東芝)があったきりだった。上野の東京文化会館の資料室でうやうやしく拝聴し、秋葉原の石丸電気で購入した。高校生の分際で、二千円するLPレコードは高嶺の花だったから、慎重なうえにも慎重に試聴し、熟慮した挙句の買物だった。
そこには映画《夏の歌》でフェンビーを魅了したと語られていた小品《春告げる郭公》や、グレインジャーが採譜した民謡主題に基づく変奏曲《ブリッグの定期市》などが収められていて、小生はそれなりに愉しんだはずだが、肝腎の《夏の歌》など、晩年の作曲家が口述筆記により仕上げた楽曲が一曲も含まれていないことに少し落胆した。だが致し方あるまい。なにしろ手に入る国内盤はこれ一枚しかなかったのだ。
■《デリアス/管弦楽名曲集》
交響詩「丘を越えてはるかに」
交響詩「ブリッグの定期市」(イングランド狂詩曲)
「夜明け前の歌」(小管弦楽の為の音詩)
「春告げる郭公」(小管弦楽の為の音詩)
「川の上の夏の夜」(小管弦楽の為の音詩)
「マルシュ・カプリス」
「そり乗り(冬の夜)」
トーマス・ビーチャム指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 東芝 エンジェル AA-8533 (1969) 2,000円
→アルバム・カヴァー(つづく)