長く昏いトンネルをようやく抜けて、清々しい秋の空気を呼吸するゆとりができた。折しも今日は小生の誕生日。ついに高齢者の仲間入りだが、それもなんだか悪くないような心持ちでいる。
夕方まで鎌倉を散策して帰宅。TVのニュースを点けたらカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞の第一報が入ってきた。
しみじみ嬉しい。なにしろ鍾愛の作家だもの。邦訳のある作品はあらかた読んだと思う。『日の名残り』も『 わたしを離さないで』も文句なしに素晴らしい。このどちらかだけでも優にノーベル賞に値すると小生はつねづね思っていたし、家人とそう語らってもいた。
だが今日この報せを耳にして、真っ先に読み返したくなったのは、あまり話題にならない『夜想曲集』という作品集だ。わけても「モールバンヒルズ」という短篇が小生は大好きなのである。
「モールバンヒルズ」とは Malvern Hills のこと。
こう書いただけで英国音楽好きなら「おお!」と歓声を上げることだろう。
モールヴァン・ヒルズとは作曲家エドワード・エルガーの故郷の小高い丘の名だ。彼は長じてからもこの丘を愛してやまず、自転車で縦横に走り回ったという逸話で知られる。
カズオ・イシグロのこの短篇も、エルガーその人が登場するわけではないのだが、明らかにこの故事を踏まえている。この地を訪れた作中人物に、彼はこんな言葉を語らせているのである。
「何年も前、エルガーについてのいいドキュメンタリー映画を見ましてね。それからずっと来たいと思っていました。エルガーはモールバンヒルズが大好きだったのでしょう? 隅から隅まで自転車で走り回った、とありました。そして、私たちもついにここに来た」 ――土屋政雄訳
ここまで読んで、おや、そのドキュメンタリー映画とは、ひょっとして・・・と思われた方は、よほどの英国音楽好き、もしくはケン・ラッセル監督の熱烈なファンに違いなかろう。