ジョージ・オーウェルの『動物農場』の新しい翻訳が出た。それも今年の初めにである。今の今まで気づかなかったのは不覚だった。鍾愛の小説だというのに、この体たらく。近傍に碌な書店がないため、店頭で定期的に新刊文庫を点検する労を怠ったためだ。なんとも迂闊というほかない。
ジョージ・オーウェル
山形浩生 訳
動物農場 〔新訳版〕
ハヤカワ epi 文庫
早川書房
2017年1月 →表紙カヴァーさっそく取り寄せて奥付を確認したら、もう第四刷だという(2017年4月25日)。刊行後まだ三か月後の段階だから、翻訳小説としては順調な売れ行きといえよう。それなりに読書界で話題になったのだろう、わざわざタイトルに「新訳版」と銘打っただけのことはある。
さっそく頁を繰って第一章から読み始めようとして、腰を抜かさんばかりに吃驚仰天した。冒頭の一節を引かせていただく。
メイナー農場のジョーンズさんは、夜に向けてニワトリ小屋に鍵をかけましたが、酔っ払いすぎていて通り抜け用の穴を閉じるのを忘れてしまいました。ランタンからの灯りの輪を右へ左へと踊らせて、かれはふらふらと庭を横切って、裏口で長靴を蹴飛ばすようにぬぐと、食器室の樽から最後のビール一杯をグラスに注いで、階段をベッドへと向かいました。そこではジョーンズ夫人がすでにいびきをかいていたのです。
寝室の灯りが消えると同時に、農場の建物すべてで、動きと羽ばたきが起こりました。その日中に出回った話では、前の晩に老メイジャー(賞ももらったヨークシャー種のオスブタです)が奇妙な夢を見たので、それを他の動物たちに伝えたがっているとか。ジョーンズさんが確実にいなくなったら、みんなが大納屋に集まろうと話がまとまっていたのです。[後略]こ、これはなんだと目を剥き、驚きのあまり坐っていた座椅子から転がり落ちた。
平明な読みやすい訳文ではないか。たしかに一応はそうなのだが、本当にこれでよいのか。念のためオーウェルの原文の当該個所を引く。
Mr. Jones, of the Manor Farm, had locked the hen-houses for the night, but was too drunk to remember to shut the pop-holes. With the ring of light from his lantern dancing from side to side, he lurched across the yard, kicked off his boots at the back door, drew himself a last glass of beer from the barrel in the scullery, and made his way up to bed, where Mrs. Jones was already snoring.
As soon as the light in the bedroom went out there was a stirring and a fluttering all through the farm buildings. Word had gone round during the day that old Major, the prize Middle White boar, had had a strange dream on the previous night and wished to communicate it to the other animals. It had been agreed that they should all meet in the big barn as soon as Mr. Jones was safely out of the way. […]
なかなか忠実な邦訳だと褒める向きもあろう。なるほど、ざっと両者を比較した限りでは、総じて原文に寄り添った訳文といえそうだ。
細部に拘泥するあまり「ランタンからの灯りの輪」とか「階段をベッドへと」のように、日本語としてややこなれない箇所もあるが、意味の大きな取り違えはなさそうだ。文中「食器室」という訳語にはやや違和感があり、ここは通常は「台所」か「流し場」とするところだが、訳者は原文の scullery の意を汲もうとして、あえて馴染の薄い「食器室」という訳語をあてたのだろう。
いや、それよりなにより、小生が真っ先にたまげたのは冒頭のジョーンズ氏の農場名である。「メイナー農場」とは何事か。
英国の manor とは「荘園」すなわち古くからの封建領地を指し、「マナー」と発音する。これは英国文化の常識であろう。断じて「メイナー」はありえない。
英国児童文学の傑作であるボストン夫人の「グリーン・ノウ」シリーズの舞台になるのは、夫人が実際に暮らしたケンブリッジ近傍の「荘園屋敷」すなわち「マナー・ハウス」なのだ。決して「メイナー・ハウス」ではない。嘘だと思ったら、この屋敷に下宿した林望さんのエッセイ集『イギリスは愉快だ』を一読されるといい。
今回の新訳はこの冒頭の第一語「メイナー農場」でしくじった。翻訳に間違いは付きものだが、第一章の第一行目で躓くというのは珍しいのではないか。そもそも manor の発音も知らない者がオーウェルを訳そうというのだから無謀というべきではないか。問われるのは英国文化についての基本的教養である。
本書の「あとがき」で訳者は「各種既訳は参照しなかった」と豪語するのだが、せめて少しは謙虚になって、これまでの十種類ある邦訳のどれかに目を通すべきだった。たとえばこうだ。
「荘園農場【ルビ/マナー・ファーム】」のジョウンズはその日も寝る前に鶏小屋の錠をおろしたが、あまりに酔つてゐたので餌箱の蓋を閉めるのを忘れた。彼は、ぶらさげてゐるカンテラの丸い光を左右に躍らせながら、千鳥足で庭を横切り、勝手口の処でどた【傍点】靴を脱ぎ捨てゝ中に入つた。流し場にあるビール樽で飲みおさめの一杯を飲み干してから細君が鼾【いびき】をかいてねてゐる寝室へ重い足取りであがつて行つた。
ジョウンズの寝室の灯【あかり】がやがて消えたかと思ふと、農場の他の建物の中が俄かに騒々しくなつて、ガサガサバタバタと云ふ物音が聞えて来た。
と云ふのは、メイジャーと云ふミドル・ホワイト種の年寄つた優秀な牡豚が昨夜見た不思議な夢を披露する旨、昼間のうちに動物仲間に通知しておいたので皆は相談して、夜になつてジョウンズが引き上げ次第大納屋に集合することに決めたからであつた。[後略]――永島啓輔 訳 (1949年)
荘園農場【ルビ/マナー・ファーム】の主人ジョーンズ氏は、夜になったので鶏【にわとり】小屋の戸締まりをしたが、酔っ払っていたためにくぐり戸を締め忘れてしまった。角灯が発する光の輪を左右におどらせながら、ジョーンズ氏は中庭をよろよろと横切り、勝手口で蹴【け】るようにして長靴をぬぎすてると、流し場のビヤ樽から最後の一杯をひっかけて、二階の寝室へあがって行った。ベッドでは、おかみさんがすでに高いびきをかいていた。
寝室の明かりが消えると、たちまち農場の建物のあちこちで、ひとしきりごそごそ、ばたばたと物音が起こった。実は昼間のうちに、品評会で入賞したこともある、中型、白色の雄豚メイジャー老が、その前の晩におかしな夢を見たので、それをほかの動物たちに伝えたいという話が伝わっていたのだ。ジョーンズさんが引っこんで安心だと分かったら、一同ただちに大納屋に集まろう、そんな取り決めになっていたのである。[後略]――新庄哲夫 訳 (1979年)
荘園【訳註/*荘園=マナー。本来は封建領主の所有地を意味する。】農場のジョーンズさんは、鶏小屋の夜の戸締りをしたが、飲み過ぎていたので、くぐり戸を閉め忘れてしまった。ランタンの光の輪を右に左にぶらぶらさせながら千鳥足で中庭を横切り、裏口で長靴を蹴って脱ぎ、台所のビール樽から本日最後の一杯をひっかけてから、二階の寝室にあがっていった。ベッドでは、奥さんがすでにいびきをたてて眠っていた。
寝室の灯が消えるのと同時に、農場の建物じゅうが、ごそごそとざわつき始めた。というのも、品評会で入賞したこともある中白種の雄豚メージャー爺さんが、ゆうべ見たおかしな夢について、みんなに話をするという知らせが昼間のうちに回っていたからだった。ジョーンズさんが眠りこみ、もう安全と見きわめがついたらすぐ、大納屋に全員集合ということになっていた。[後略]――開高 健 訳 (1984年)
荘園農場【ルビ/マナー・ファーム】のジョーンズさんは、にわとり小屋にかぎをかけて夜のとじまりをしましたが、ひどくよっぱらっていたので、くぐり戸を閉めるのを忘れてしまいました。ランタンからもれでるまんまるの明かりを左右にゆらしながら、中庭をふらふらとすすみ、裏口でブーツをけっとばしてぬぎすて、台所のビヤだるから寝しなの一ぱいをごくりと飲んで、二階のベッドにあがってゆきました。ベッドのなかではおくさんがすでにいびきをかいてねむっています。
寝室の明かりが消えると、すぐに農場の建物じゅうでざわざわ、ばたばたという物音がしました。昼間のあいだにはなしが広まっていたのです。なんでも、品評会で入賞したミドル・ホワイト種のおすぶた【ボアー】であるメージャーじいさんが昨晩ふしぎな夢を見たので、ほかの動物たちにそれを伝えたいのだとか。それでジョーンズさんがいなくなってだいじょうぶになったら、すぐにみな大納屋【おおなや】に集まろうということになったのです。[後略]――川端康雄 訳 (2009年)
ご覧のとおり、先人たちは皆ちゃんと心得ていたのである。これら既訳のいずれか、せめて直近の川端康雄訳(岩波文庫)を参照していたならば、愚かしい過ちは容易に防げたはずなのだ。
そもそも『動物農場』には、1949年の本邦初訳から数えてすでに十もの優れた邦訳が存在する。今さら新訳を世に問うのであれば、それ相応に既訳を凌駕する際立った特色が備わっていなければならないだろう。まして「マナー」をわきまえないような粗忽な誤謬は許されない。大丈夫か、早川書房。