六月が終わってしまう前に、今年の上半期で最も嬉しい収穫物について忘れずに記しておこう。某オークションで至極妥当な価格で落札したものだ。
まずはジャケット画像をご覧いただきたいが、落札したそのLPレコードは一見なんの変哲もないソ連時代の古めかしい装いをしている(
→これ)。
云うまでもなかろうが、被写体はゲンナジー・ロジェストヴェンスキー。今や八十六翁ながら現役で活躍するロシア音楽界の長老であるが、この写真はおそらく三十歳代初め頃だろうか、ボリショイ劇場で数多くのバレエとオペラを指揮し、アレクサンドル・ガウクからモスクワ放送交響楽団の常任を引き継いだばかりの颯爽たる若武者だった。
それにしては見事な禿頭だが、1957年の初来日時に新宿のコマ劇場のピットでボリショイ・バレエを指揮する彼を目撃した叔父は「若いのにプロコフィエフそっくりの禿げ具合だった」と証言しているから、1960年代初頭には最早このような風貌だったのだろう。
それはともかくとして、このLPはきわめて珍しい。稀覯盤といっても過言ではあるまい。蒐盤歴が半世紀に及ぶ小生も初めて手にする。
まずは収録内容を書き留めておこう。
モーリス・ラヴェル Морис Равель:
歌劇《スペインの時 Испанский Час》
コンセプシオン Консепсия/ガリーナ・サハロワ Галина Сахарова
ゴンサルベ Гонзальве/ユーリー・エリニコフ Юрий Ельников
トルケマダ Торквемада/アレクセイ・ウスマノフ Алексей Усманов
ラミロ Рамиро/イワン・ブドリン Иван Будрин
ドン・イニゴ・ゴメス Дон Иниго Гомез/ボリス・ドブリン Борис Добрин
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー Геннадий Рождественский 指揮
モスクワ放送交響楽団
Большой симфонический оркестр Всесоюзного радио
Аккорд Д-014623 (early 1960s)
正確な録音データも発売年代も記載がないが、本盤はソ連の国営レーベル「メロジヤ Мелодия」が誕生する1964年以前の旧レーベル「アッコルド Аккорд」の一枚として発売されたところから推して、おそらく1962~63年頃に制作されたものと推察される。
だとすれば、この《スペインの時》は戦前のジョルジュ・トリュック指揮の世界初録音SP(1928/29)、LP初期のルネ・レボヴィッツ盤(米Vox, 1949/52)、アンドレ・クリュイタンス盤(仏Columbia, 1953)、エルネスト・アンセルメ盤(英Decca, 1953)に続く五番目の正規スタジオ録音ということになろうか。これまでに発掘された放送音源も含めても、小生の知る限り本盤は史上七番目か八番目の録音になりそうだ。詳しくは拙ブログの《スペインの時》ディスコグラフィ(→ここ)をご参照いただきたい。
ロシア語で歌われたラヴェルの歌劇、という物珍しさをひとまず措いても、このロジェストヴェンスキー指揮《スペインの時》はラヴェル演奏史上に銘記さるべき成果ではないだろうか。この音源は「メロジヤ」レーベルからもLP再発されたらしいが、それ以降にCD化された形跡は一切なく、かかる音源が存在する事実すら世界中のラヴェル愛好家の視界から消え去ってしまった。
ラヴェルの二つのオペラ、すなわち《スペインの時》と《子供と魔法》のディスク音源の完全蒐集を密かに目論む小生にとって、最も入手が至難である本LPと出逢えたのは嬉しさの極みだが、それとは別にこのロジェストヴェンスキー指揮盤には格別な歴史的意義がある。
だがそれを語る前に、1960年代初頭に至るまでのロジェストヴェンスキーの経歴を急ぎ足で略述しておこう。
堅実な指揮者で教育者としても知られるニコライ・アノーソフを父に、名ソプラノのナターリヤ・ロジェストヴェンスカヤを母にもつゲンナジー・ロジェストヴェンスキー(1931~ )はモスクワ音楽院で指揮法を父からじきじきに、ピアノをレフ・オボーリンにそれぞれ学び、在学中からボリショイ・バレエを振るほど非凡で早熟な才能を発揮した。
卒業とともにボリショイの副指揮者に抜擢され、1955年に収録されたガリーナ・ウラノワ主演の総天然色バレエ映画《ロミオとジュリエット》全曲のサウンドトラックの指揮を任されたほか、ボリショイ・バレエ団の初訪英(1956)、初訪日(1957)巡業にも同行し、天才指揮者として国外でも早くから令名を馳せた。
1960年にはムラヴィンスキー、ロストロポーヴィチ、ショスタコーヴィチとともにレニングラード・フィルの英国公演に同道し、ショスタコーヴィチの新作チェロ協奏曲を作曲者立ち会いのもとで英国初演した。このときロジェストヴェンスキーは二十九歳の若さだった。
当時は東西冷戦下ながらフルシチョフによるスターリン批判(1956)を受けて、ソ連社会の「雪融け」が急速に進行中だったことが、戦後第一世代のロジェストヴェンスキーが新時代の指揮者としてキャリアを切り拓くうえで決定的な要因となる。
1937年の大粛清から第二次大戦を挟んで二十年の長きにわたり、西欧との文化交流が途絶して鎖国状態だったソ連に、清新な気運が俄かに巻き起こった。シェーンベルク、ベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、オネゲル、バルトークなど、20世紀の「ブルジョワ」音楽が禁を解かれて演奏され始める。
1957年のグレン・グールドのモスクワ、レニングラード公演(ベルク、ヴェーベルン、クシェネクを披露)、59年のレナード・バーンスタイン&NYフィルのモスクワ公演(当局の制止を振りきってストラヴィンスキー《春の祭典》を演奏)、1962年のストラヴィンスキー里帰り公演(モスクワとレニングラードで自作を指揮)は、ソ連音楽界での「雪融け」を象徴する事件だった。
度重なる国外楽旅で西側の音楽事情を目の当たりにしたロジェストヴェンスキーは彼我の大きな溝を埋めるべく、これまでソ連で未紹介だった20世紀西欧音楽を自国の聴衆に知らしめる責務に目覚めたとおぼしい。このままでは世界から取り残されてしまうという強い危機感も覚えただろう。
このあたりの事情は頼れる文献に乏しく、網羅的なディスコグラフィもないため、わずかに日本盤でも出た当時のLPの収録曲目から推測するばかりだが、1961年にモスクワ放送交響楽団の常任指揮者に就任した前後から、彼はシェーンベルク、ヒンデミット、ワイル、ストラヴィンスキー、バルトークなど両大戦間の音楽、さらにはサティ、ミヨー、プーランク、メシアンらの近代フランス音楽の録音を矢継ぎ早に推し進めたようだ。
ロジェストヴェンスキーがロシア音楽史上の重要な転換期に残した夥しいアルバムの白眉と呼びうるのが、このラヴェルの《スペインの時》と(ほぼ同時期の収録と推察される)《子供と魔法》の全曲録音だろうというのが小生の考えである。
・・・と、ここまで辿り着くのに思いのほか長文を費やしてしまった。彼がどんな意図からラヴェルの二つのオペラをロシア語で録音したのか、それについては次のエントリーでこの続きをしたためよう。