今朝の投稿で思わず「ジェフリー・テイトを追悼する資格がない」となどと口走ってしまったが、その舌の根の乾かぬうちに、とっておきのCDを棚から取り出し、そっとターンテーブルに乗せようとしている。
拙宅に架蔵するジェフリー・テイトのディスクは情けないほど尠いのだが、それでもこの一枚は紛れもなくわがフェイヴァリット・アルバムであり、折に触れて愉しんでいる。いつ聴いても夢心地のひとときを約束してくれるからだ。
"The Noël Coward Songbook -- Ian Bostridge"
ノエル・カワード (コリン・バッカーリッジ編):
I Travel Alone
■ 20年代
Parisian Pierrot
Poor Little Rich Girl
World Weary
Mary Make-believe
A Room with a View*
Dance, Little Lady
If You Could Only Come with Me
I'll See You Again*
Zigeuner
The Dream Is Over
■ 30年代
Any Little Fish
Twentieth Century Blues
Mad Dogs and Englishmen*
Let's Say Good-bye
Something to Do with Spring*
The Party's Over Now
Someday I'll Find You*
Never Again
テノール/イアン・ボストリッジ (+ソプラノ/ソフィ・デインマン*)
ピアノ/ジェフリー・テイト2001年10~11月、ロンドン、アビー・ロード第一スタジオ
EMI 5 57374 2 (2002)
→アルバム・カヴァーノエル・カワード好きにとって、願ってもない特別なアルバムである。
クラシカル界の歌い手がカワードのソングに挑んだ先例にはヒルデ・ギューデン、ジョーン・サザーランドら先例があるが、このボストリッジほどリラックスした自然体で淡々と、歌の良さをしみじみ味わうように唄った人は皆無だったと思う。
これが出たとき狂喜乱舞し、すぐに入手して繰り返し聴いたが、まだ拙ブログがない時分だから感想は残さなかったはず――と思ったら七年前に書きかけた紹介記事があった(
→ノエル・カワード・ソング集の絶妙)。今宵その続きを書く。
子供の頃から舞台に立ち、芝居の世界ではプロ中のプロだったものの、音楽家として訓練を受けたことのないカワードに、どうしてこれほど質の高い、魅惑の旋律が書けたのか。アーヴィング・バーリンやジョージ・ガーシュウィンに比肩するほどのソングライティングの才能である。
ボストリッジの選曲は考え抜かれている。まず「
僕はひとり旅する」をクレドとして掲げたあと、1920年代の甘美で上質なオペレッタ風の佳曲たちを続けざまに披露する。「
巴里の道化」「
眺めのよい部屋」「
あなたに再会するでしょう」など、いずれも絶品というべき仕上がり。うっとり聴き惚れぬ者はいないだろう。
そして後半の30年代セクションでは、ジャズ・エイジの時代を仄かに反映した自在で性格的なソングズが続々と繰り出される。
ただし、ふたつの時代は画然と分たれるものではなく、1930年に初演された名舞台《私生活》の挿入歌「
いつかあなたを見つけるでしょう」などは、20年代を締めくくるような余韻嫋々たる佳曲だ。せめてこの一曲だけでも、ボストリッジの絶妙な歌をお聞かせしようか(共演はソフィ・デインマン
→これ)。
ボストリッジのアルバムは共演ピアニストをそのつど精選している。彼にはジュリアス・ドレイクという腕利きの伴奏者がいて、大概は彼と組むのだが、《美しき水車屋の娘》では内田光子、《冬の旅》ではレイフ・オヴェ・アンスネス、《白鳥の歌》ではなんと指揮者アントニオ・パッパーノをピアニストとして起用するなど、その曲にふさわしい共演者を捜し出すのに熱心だ。
その彼がどういう理由と経緯から、当アルバムの伴奏者に名匠ジェフリー・テイトにご登場願ったのか、事の次第はライナーノーツにも明かされていない。
ジェフリー・テイトは修業時代にオペラのコレペティートア(練習ピアニスト)として過ごし、ショルティの《フィガロの結婚》でチェンバロ伴奏(レチタティーヴォ・セッコ)を任されたほどの名手だったから、そのピアノの腕前をボストリッジが承知していても不思議はないが、こともあろうにノエル・カワードのソング集に起用したのには深い理由がありそうだ。おそらく、なんらかの機会にカワードをめぐって両者は意気投合し(「実は大好きなんです」「おお、君もか!」)、三顧の礼をもってマエストロをスタジオに招いたということではないか。きっとそうに違いない。
それにしてもなんと見事なピアノであることよ。単に音楽的に清潔であるばかりか、カワードの楽曲の匂いやかな魅惑を余すところなく捉え、ボストリッジの歌唱を影となり日向となり下支えする。淡々とした運びのなかに、そこはかとなくペーソスとヒューモアが漂う名人芸なのである。
これだけのピアノが弾けるのだから、ワルターやロスバウト、より近くはバーンスタインやザヴァリッシュのように、名だたる歌手と組んだリサイタルが催されても不思議でないが、ジェフリー・テイトに関してはそんな話を聞いたことがない。よほど謙虚なひとだったのだろう。あるいは自分は指揮一筋と思い定めていたのか。
生前あまりにも無知蒙昧だったわが身を恥じて、晩年の彼がハンブルクで振った演奏会の実況録音を註文した。ディーリアスで始まり、シューベルトの未完成交響曲で締め括られる一夜だという。