昨夏のこと、旧友の横谷敦君の自宅押し入れから四十年ぶりに8ミリの映画フィルムが見つかったという報せは、ペテルブルグ音楽院でストラヴィンスキーの初期作品の楽譜が一世紀ぶりに日の目を見たというニュースにも、勝るとも劣らぬ衝撃的な出来事だった。あくまで自分にとって、の話なのだが。
1975年春から一年間、わが旧友たちは荻窪に六畳一間のアパートを借りていた。そこで日夜あれこれ語り合い、酒盛りをするのが主目的だったが、近所には前年できたばかりのライヴスポット「荻窪ロフト」があり、週末には連れだってロックの生演奏を聴きに行ったものだ。誰が言い出したのか、この部屋を「荻窪大学」と呼び習わし、ここを拠点に二十歳前後の若者は互いに映画・芝居・音楽・小説の情報を交換し、切磋琢磨しあっていた。
仲間たちの最大の共通項は映画だった。年間で数百本を観るという剛の者(今でいうシネフィル)が何人もおり、その流れで「皆で協力し合って映画を撮ろう」という機運が巻き起こった。渦の中心にいたのが横谷敦君。彼は芦屋に住む文通友達の大森一樹が自主制作で《暗くなるまで待てない!》を完成させた(1975年4月公開)のに刺激され、「荻窪大学映画部」の名のもと、仲間たちと8ミリ映画の製作に乗り出した。75年秋のことだ。
題して《黄土を血に染めろ》。とあるヤクザ組織の末端に属するヒットマンの若者が、ふとした成り行きから命令に背き、殺した相手の実娘と逃避行に出る。二人は隠れ家に身を潜めて組織の追跡を逃れようとするが、やがて・・・。
題名の「黄土」とは黄泉の国のことだという。その名のとおり、クライマックスの場面──荒涼たる曠野での撃ち合いで、主人公を含め登場人物のほとんどは絶命してしまう。もうもうたる土埃が舞うなか、ひとり生き残った娘が遠のいていく長回しで映画は終わる。
ストーリーも台本も機材も、撮影スタッフも出演者もすべて仲間たちが分担した。小生も荒野の場面にほんの端役で出演したほか、ロケ場所に阿佐谷の下宿を提供し、題字タイトルやエンドロール、宣伝チラシの制作を手伝った。このように仲間たちが手弁当で協力しあって、ようやく仕上がった記念すべき一本なのだ。
とはいえ日活ニューアクションばりのハードな内容を、二十歳前後の素人集団がモノクロの8ミリで映像化するのだから、出来映えは知れたものだ。1976年の初夏、何度か完成記念上映会(情報誌『ぴあ』にも告知が載った)を催したが、小生はこのとき嬉しさよりも気恥ずかしさで、スクリーンを正視できなかった。
それから四十年が過ぎ、ひょっこり21世紀に姿を現した《黄土を血に染めろ》はめでたくDVDに変換され、昨年11月にゆかりの地である荻窪で復活上映会が催された。そして一昨日(2月25日)、高円寺で二度目の上映会。カラオケ店の一室を借り、七、八人の旧友が集うだけのごく私的な会だったが、ノンフィクションライターの柳澤健さんも参加された。昨年彼が上梓した『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』(集英社)には、この映画製作にまつわるエピソードが登場するのである。
四十年の時を経て再見した《黄土を血に染めろ》は、思いのほか見どころのある映画だった。技術的な不備は至るところ目につく(台詞や効果音が不明瞭で、映像とうまく同調しない)が、それでも志の高さは画面のそこここに明らかだ。
日活ニューアクション、とりわけ長谷部安春監督作品の影響が色濃く、そこに鈴木清順、加藤泰、深作欣二からの感化があちこち姿を覗かせる。とはいえ、安易なパロディに走るのではなく、敬意と愛情をもって真剣に模倣し継承する姿勢が歴然としており、観ていると胸が熱くなってくる。
その後「荻窪大学映画部」で数本の8ミリ映画を製作したが、フィルムが現存するのはこの一作のみ。残っていて本当によかった。単なるノスタルジーからそう言うのではない。ここには紛れもなく「1970年代の青春」が映り込んでいるからだ。