今朝スタニスワフ・スクロヴァチェフスキの訃報を聞き、彼が1923年生まれの享年九十三と知って、ならば鈴木清順監督と同い歳ではないかとの思いが脳裏をふと掠めた。外出して帰宅すると今度はその清順師の死の報せである。長寿を全うされての旅立ちだから驚き嘆くにはあたらず、かつてチャップリンの逝去の報に大島渚が口にした言葉に倣うなら「その死は自然現象である」。とはいうものの、鈴木清順が生きてこの世にあるという安心感には大きなものがあったに違いなく、思いがけず痛切な喪失感に襲われた自分を発見して正直たじろいでいる。
生身の鈴木清順を目の当たりにしたのは1975年1月19日、新宿の東京厚生年金会館大ホールでのイヴェント「歌う銀幕スター夢の狂宴」の舞台が唯一だったと思う。宍戸錠に先導されて舞台に登場した清順師は、自作《肉体の門》の顰みに倣って、自ら日の丸を被って「麦と兵隊」を唄った。もちろんそれは高田純が書いた当夜の台本どおりの演出なのだが、スタッフ助手として舞台の上手袖に控えていた小生の眼にも胸の熱くなるような光景と映った。白い山羊髭を蓄えた清順師はすでに随分ご高齢に見えたのだが、考えてみたら当時まだ五十そこそこだったはずだ。日活を馘になって不遇を託っていた監督は二年後《悲愁物語》で十年ぶりに復活を遂げ、《ツィゴイネルワイゼン》《陽炎座》《夢二》を撮った。最後の作品《オペレッタ狸御殿》をスクリーンで観ず仕舞いなのが恥ずかしい。