小生のポップス狂いは1967年で一段落するのだが、夏頃まではトランジスタ受信機に齧りついて、毎晩のようにラヂオのベストテン番組に聴き惚れていた。
当時のメモは散逸してしまったので、ネット上に公開されている sukoyaka 氏の貴重な労作サイト「
60年代ポップス・ランキング」(
→ここ)から、TBSラジオの日曜夜「今週のベスト10」1967年1月29日の上位二十曲を書き写させていただく。
01.
リトルマン/ソニーとシェール
→これ02.
孤独の太陽/ウォーカー・ブラザース
→これ03.
バス・ストップ/ホリーズ
→これ04.
グッド・バイブレーション/ビーチ・ボーイズ
→これ05.
恋の終列車/モンキーズ
→これ06.
メイム/ハーブ・アルパートとザ・ティファーナ・ブラス
→これ07.
ウインチェスターの鐘/ニュー・ボードビル・バンド
→これ08.
ストップ・ストップ・ストップ/ホリーズ
→これ09.
恋はあせらず/シュープリームス
→これ10.
メロー・イェロー/ドノヴァン
→これ11.
タックスマン/ビートルズ (シングル発売なし)
12.
サントロペのお嬢さん ~映画《大混戦》/ビビ・グラ
→これ13.
冬の散歩道/サイモンとガーファンクル
→これ14. ハリー・サンダウン/ピーター、ポール&マリー
→これ15. リタの唄/ルウ・クリスティー (未詳)
16.
あごひげおじさん/サム・ザ・シャムとファラオス
→これ17.
アイム・ア・ビリーヴァー(恋に生きよう)/モンキーズ
→これ 18.
恋のデュエット ~映画《男と女》/
ピエール・バル―とニコール・クロワジール →これ19. サマー・タイム/ビリー・スチュワート (未詳)
20. 孤独な魂/スペクター (未詳)
今からきっかり半世紀前という理由からたまたまこの日を選んでトップ20を書き写したのだが、綺羅星のごとき不朽の名作がずらり並んでいるのには驚嘆するほかない。ウォーカー・ブラザーズの《孤独な太陽》、ホリーズの《バス・ストップ》、ビーチ・ボーイズの《グッド・ヴァイブレーション》、スープリームズの《恋はあせらず》、ドノヴァンの《メロー・イエロー》が十位以内に顔を揃え、後方ではビートルズの《タックスマン》やサイモン&ガーファンクルの《冬の散歩道》が上位をうかがう。映画音楽からは前年秋の大ヒット《男と女》のテーマ曲がしぶとく十八位に付けている。任意に選んだ日にこの陣容。凄すぎるラインナップだ。
埼玉の片田舎で碌な情報の得られぬ中学生はこれらのシングル盤の現物を目にすることなく、『ミュージックライフ』などの音楽情報誌も知らず、ひたすらラヂオのベストテン番組のヒットチャートのみで異国のポップ・ミュージックに接し、歌詞も皆目わからぬまま、その魅惑に陶然となっていた。
だから1966年の初夏ビートルズが来日してその実況中継をTVで目にしたとき、どれがジョンで、どれがポールなのか、さっぱり弁別できなかった。映像抜き、耳からだけ音楽に親しんでいたのである。純粋な受容体験といえば負け惜しみか。
唯一の例外といえる体験が毎週土曜日にあった。フジテレビで午後二時から三時まで生放送される「ビートポップス」がそれである。1966年4月にスタートしたこの劃期的な番組については、すでにほうぼうで思い出が語られている。
たまたまネット上で、番組開始を告知する囲み記事(掲載誌不詳)を見つけたので、全文を書き写しておこう。
TVに新形式の音楽ショー登場!
ディスクをTVにもちこんだ初のヒットパレード番組
「ビート・ポップス」
四月二日より放映(フジテレビ)
毎週土曜日 二・〇〇~三・〇〇pm
音楽ファンには耳よりな話、四月二日よりTVの新番組としてディスクを持ち込んだディスコテック・ショウ「ビート・ポップス」が登場します。
この番組はいままでわが国にはない初めての試みとして、すでに各方面から注目を浴びています。耳で楽しみ、目で楽しむ音楽ショウ、話題がいっぱい楽しさいっぱい、ゴキゲンな番組です。どうぞご期待下さい。
なお、この番組を構成するホスト、ホステスには各界のオーソリティがあたり、いろいろな話題を豊富な体験から解剖してくれます。
レギュラー・メンバー
☆式場壮吉(レーサー)
☆中川ユキ(ダンス教室経営者)
☆山崎士郎(D・J)
☆星加ルミ子(音楽評論家)
☆木崎義二(音楽評論家)
他毎週ゲスト多数出演
内容 🔴 ゴー・ゴー・ダンス/クルマの話/おしゃれ/遊び/映画/レジャー案内/外人タレントの出演/ニュース/スポーツ/テスト盤コーナー/ゲストコーナー
*ぜひこの番組に対するご意見を本誌にお寄せ下さい。
文面から推してこの記事はフジテレビもしくは産経グループの雑誌媒体に載ったものらしく、掲載時期は1966年の二月か三月だろう。「
ディスクをTVにもちこんだ初のヒットパレード番組」という惹句が番組の特色をズバリ言い当てている。
ラヂオ各局が競って洋楽ベストテンを放送しているのに、当時のTVでは歌番組といえば歌謡曲ばかり。その理由は明らかだ。新曲のヴィデオクリップなど存在しない1960年代、洋楽のヒット曲は音源しか手元になかったから、動く映像が必須となるTVでは番組の作りようがなかったのだ。スタジオでディスクジョッキーがヒット曲のレコードをかけながら進行するという「ビートポップス」が当時いかに劃期的な(むしろ実験的な)番組だったか理解できよう。
「
ディスクを持ち込んだディスコテック・ショウ」「
いままでわが国にはない初めての試み」「
耳で楽しみ、目で楽しむ音楽ショウ」。謳い文句に偽りはなかった。
「レギュラー・メンバー」に現役のラヂオDJや若手音楽評論家が名を連ねるのは音楽番組として当然だろうが、視覚面での乏しさを動く身体の映像で補うべく、ダンス教室経営者の肩書をもつ中川ユキが起用された。わが国にタップダンスを根づかせた中川三郎の三女で、日本初のディスコテック「ゆき・ア・ゴーゴー」を開店させた二十代前半の女性である。TV局のスタジオをディスコに見立て、レコードにあわせて若者たちに踊らせようという目論見が透けてみえる。
そのことは記事の終わりに列挙された番組内容の筆頭に、「ゴー・ゴー・ダンス」が掲げられた一事からも明らかだ。製作サイドはこの新番組に音楽ばかりか若者文化全般を取り込もうとしていた。「クルマ」「おしゃれ」「映画」「レジャー」「スポーツ」などのキーワードが並ぶのはその表れだろう。キャストのなかにレーシングドライヴァー式場壮吉の名があるのも同じ理由からだ。
ところで往時の「ビートポップス」を少しでも知る人は、上の予告記事を読んで「おや?」と訝しく感じただろう。
「レギュラー・メンバー」のなかに肝心かなめの人物──大橋巨泉の名が見当たらないのだ。実質的な司会者にして進行役である巨泉抜きに、この番組が成立するとは思えないのだが、なぜかこの予告記事には登場していない。番組スタートを間近に控えた時点でも、まだ彼の起用は決定していなかったのか、あるいはギリギリまで公表できない、なんらかの裏事情があったのか。今となっては巨泉抜きの「ビートポップス」は考えられないだけに、その不在はなんとも奇妙な感じがする。
そしてもう一人、忘れてはならない重要な登場人物がここには欠けている。「日本唯一のゴー・ゴー振付師」こと藤村俊二である。
小生は最初期の「ビートポップス」を観ていないので、確実なことは記せないが、番組開始からしばらくの間、藤村俊二は姿を見せなかったのではないか。上述のように、ゴー・ゴー・ダンス界から中川ユキ嬢をレギュラーに迎えた以上、別の振付師の出る幕はなかったと考えるほうが自然だし、斯界のサラブレッドたる才媛に較べ、当時の彼は駆け出しの「素性の知れない」振付師に過ぎなかったからだ。
察するに、なんらかの理由から中川ユキが番組から退くことになり、空席となった「ゴー・ゴー・ダンス」指南役として、放送界で少しは名が知られていた藤村俊二に急遽、白羽の矢が立った・・・そう想像できそうな気がする。
66年4月の開始から半年ほど過ぎた秋口の頃、ようやく番組の存在を知った中学二年生は、毎週土曜は決まって足早に帰宅し、遅い昼食もそこそこにTVの前に陣取り、日本初のディスコテック・ショーを呆けた表情で眺めたものである。
半世紀前の映像の面影はもはや朧げだが、数あるラヂオのベストテン番組に較べ、「ビートポップス」がとりたてて音楽番組として重宝だった憶えはない。葉書投票を集計したベストテンにも独自色は乏しかった。ポップス事情に不案内なのに、自信たっぷり大物然として木崎義二や星加ルミ子と渡り合う大橋巨泉という存在に奇異の眼を瞠ったことを思い出す。これは一体どういう人物なのか、と。
上の告知記事を信じるならば、番組には自動車やファッションやスポーツに関するコーナーも設けられていた筈だが、サイタマの田舎に暮らす小生には無縁の話題なので、全く記憶に残っていない。音楽しか眼中にない中学生だったのだ。
「ビートポップス」でひとつだけ明瞭に憶えているのは、藤村俊二による「ゴー・ゴー・ステップ」指南のコーナー。あれだけは記憶に鮮やかである。ヒット曲で踊ること自体が当時の小生には新鮮な驚きだったのだ。
今も忘れないが、ちょうどその頃スマッシュ・ヒットとなったハーブ・アルパートとティファナ・ブラスのインスト曲《メイム》にあわせて、シンプルで憶えやすいステップを考案し、それを自ら実地にやってみせるのである。
藤村さんの指導はわかりやすいが正統的なものだ。めいめい足元の地面に四角形を意識させ、その枠のなかでステップを踏ませる。まず右足を横に出し、それを元に戻し、次いで右足で一歩退いたあと、左足も後退させ、この場所でひとつ手拍子を打って、体をくるり一回転させる・・・といった塩梅で、懇切に手取り足取り。
指導がよほど上手だったのか、毎週しつこく繰り返したのか、おそらく両方の理由から、とにかく《メイム》の振付だけはわが身体に沁みついていて、五十年後の今もステップが踏めるほどだ。つい先ほど藤村俊二の訃報に接し、真っ先に想い出したのは、この《メイム》のステップのことである。
家人にその話をすると、同い年の彼女も茨城の田舎で「ビートポップス」を観ていたといい、「
おヒョイさんの振付だと、ホリーズの《バス・ストップ》のステップが懐かしい。お手本に従って、スタジオの全員が踊る光景が目に浮かぶ」と宣う。
冒頭に掲げたTBSラジオ「今週のベスト10」67年1月29日のラインナップを改めて眺めると、《バス・ストップ》は三位、《メイム》は六位に付けている。この二曲はそれからあと3月5日まで同番組のトップテンに留まり続けている。
この経緯から推測するに、「ビートポップス」で《バス・ストップ》や《メイム》が大々的に取り上げられ、藤村俊二の振付で踊られたのはちょうどこの時期、すなわち1967年の1月から3月までの間ではなかろうか。記録によれば「ビートポップス」は67年の3月末で放映がいったん打ち切られたというから、4月以降はありえない。小生と家人とは埼玉と茨城の片田舎で、ほぼ同時期に同じ番組からステップを習い覚えていたのである。
その後、視聴者の強い要望により「ビートポップス」は同年10月7日から再開された。ミリアム・マケバが歌う《パタパタ》に振り付け一世を風靡した「パタパタ・ステップ」、《雨に消えた初恋》のヒット時に巨泉が発した駄洒落「牛も知ってるカウシルズ」、ヴォーグスの《ふりかえった恋 Turn Around Look at Me》を巨泉が「ひっくり返って俺を見よ!」と茶化した・・・など、往年のファンが話題にする面白エピソードは、すべて67年秋の番組再開後の出来事である。
すでにポップ・ミュージック万般に対する情熱を失った小生は「ビートポップス」も二度と観る機会がなく、これらの挿話もずっとあとで聞き知った。残念な気もするが、今さら悔やんでみても始まらない。なにはともあれ、《メイム》のステップを懇切丁寧に指導し、田舎の中学生にまで普及させた五十年前の藤村俊二の功績を称え、その冥福を心から祈ろうと思う。