昨晩から四夜連続でNHKスペシャル枠「ドラマ 東京裁判」が放映されている。まだ第一回の時点でどうこう云うべきではないが、裁判にまつわる公的記録ばかりでなく、当事者として関わった判事たち(米・英・仏・蘭・蘇・豪・新・加・中・印・比)の手紙や回想など、新発見の史料を突き合わせて、多角的な視点からその内実を描くという歴史再現ドラマらしい。甲論乙駁の難しいテーマをできるだけ冷静に、公平に語ろうという姿勢には好感を抱いた。
第一回目の終盤で、びっくりしたのは判事たちが宿泊する帝国ホテルの広間で、彼らをもてなすためピアノ演奏が披露される場面に、
エタ・ハーリヒ=シュナイダーがピアニストとして登場したこと。
今では忘却の淵に沈んだこの女性奏者は、日本の近代音楽史にきわめて重要な足跡を残している。
エタ・ハーリヒ=シュナイダー Eta Harich-Schneider は1897年ベルリン郊外の生まれ。ワンダ・ランドフスカからチェンバロ演奏の手ほどきを受け、1930年代にベルリン高等音楽院で古楽を教えたバロック復興の立役者のひとり。ヒンデミットとも親しく、作品の初演を手がけている。当時のナチス政権との間で軋轢を抱えていたらしく、1941年にドイツの文化使節の名目で来日したがなぜか帰国せず、そのまま東京で第二次大戦期を過ごした。
滞日中の彼女は当時まだ珍しかったチェンバロの演奏会を催したほか、教育者として日本人にピアノとチェンバロを教えた。その傍ら日本の伝統音楽を研究し、当時のわが国の作曲界とも浅からぬ関わりをもった(信時潔と尾高尚忠の作品を録音し、小倉朗の作品を絶賛した)。戦後、日本の作曲家を論じた彼女の意欲的な著作『現代音楽と日本の作曲家』(吉田秀和訳、創元社、1950)は、今なお味読すべき鋭い指摘を含んでいる。
かてて加えて、戦時下の東京で彼女はソ連のスパイ(表向きはドイツのジャーナリスト)リヒャルト・ゾルゲと親しく交際し(恋愛関係にあったという)、ゾルゲ事件についての研究書にはしばしば重要な脇役として登場するという一面もある。ナチスとの緊張関係といい、ゾルゲとの交友といい、政治的に危うく際どい立場に身を置いた人物でもあり、異郷の地での私生活は謎に包まれていた。
ドラマのなかでハーリヒ=シュナイダーは演奏後、オランダの判事ベルト・レーリングから声をかけられる。趣味でヴァイオリンを嗜むレーリングは「一度ぜひ共演を」と申し出たのだ。一旦すげなく拒絶したものの、彼が東京裁判の判事であるとわかると彼女は態度を一変させ、自分の名刺を手渡すと「まずはお手合わせして、貴方の技量を知りたいわ。お電話を下さらない?」と応じた。
この続きははたしてどうなるか。第二回目以降のお楽しみだ。
ハーリヒ=シュナイダーについて小生の知るところは甚だ尠いが、手許には戦後の彼女が録音したクープランのクラヴサン曲集のLPがある。オーストリアのアマデオ(Amadeo)レーベルから出た一枚。
"Cembalomusik von François Couperin -- Eta Harich-Schneider"
クープラン:《クラヴサン曲集》第四集より
組曲 第二十三番 大胆、編物をする女たち、女アルルカン、デロス島のゴンドラ、サテュロス
組曲 第二十七番 高雅なアルマンド、罌粟、中国人たち、機智
組曲 第二十五番 幻覚、神秘、モンフランベール女、勝利のミューズ、彷徨う影
組曲 第二十六番 恢復期の病人、ガヴォット、取り澄まし、棘、パントマイム
チェンバロ/エタ・ハーリヒ=シュナイダー1960年頃、ウィーン
Amadeo AVRS 6218 (early 1960s)
同じレコードの日本盤(日本コロムビア OS-3432, 1964年)もたまたま架蔵するので、そのライナーノーツから戸口幸策氏による演奏者紹介を引いておこう。
1897年11月16日にベルリンに生れた、女流クラヴィチェンバロ(クラヴサン)奏者で、また多方面にわたる音楽学者としても知られている。チェンバロの演奏をランドフスカ女史に学んだ彼女は、1929年にベルリンに古典音楽コレギウムを創立し、また1933年から39年にかけて同地の高等音楽学校でチェンバロを教えた。1941年にナチスに追放されたハーリヒ=シュナイダーは日本に来て大戦中を我が国で過していたが、1945年以来、やはり日本で、アメリカ陸軍カレッジの音楽科で教鞭を取り、また、日本、東洋の音楽の研究にたずさわった。1949年から1955年まではニューヨークで生活していたが、1950年にバッハの200年祭のためライプツィヒ市に招かれたのを契機に、また欧米各地での演奏活動が盛んになった。1955年以来ウィーン国立音楽アカデミーでチェンバロを教え、また様式史の講座も受持っている。1953~54年と1955年の二度にわたってまた我が国に来て演奏活動をおこなった上に、とくに雅楽の研究をして論文を発表している。今日また来日された女史はわが国のチェンバロ音楽のために大きな足跡を残された人である。20世紀におけるバロック演奏史に不案内な小生には、ハーリヒ=シュナイダーが弾いたバッハやクープランが今日どのように評価されているのか、皆目わからないし、戦時下の日本滞在を奇貨として彼女が熱心に取り組んだ「もうひとつのライフワーク」たる日本音楽史の研究も、専門家たちの間でいかに尊重あるいは無視されているのか、知る手がかりが全くない。
それはそれとして、わが手許にはもう一枚、ちょっと毛色の違った彼女の面白いLPレコードがある。
"Fünf japanische Märchen
übersetzt und erzählt von
Eta Harich-Schneider"
■ Der Sperling mit der abgeschnittenen Zunge
■ Urashima Taro
■ Der Pfirsichjunge
■ Das Federkleid
■ Was man sich vom Affen und der Krabbe erzählt
Lesung/ Eta Harich-SchneiderWien, 1960s
Preiser Records SPR 3169 (1960s)
→アルバム・カヴァー標題が示すとおり、これはエタ・ハーリヒ=シュナイダーが自ら独訳し、朗読までした「五つの日本民話」である。採り上げられているのは「舌切雀」「浦島太郎」「桃太郎」「羽衣」「猿蟹合戦」の五篇。ドイツ語のヒヤリングが全く駄目な小生には猫に小判、豚に真珠、俗衆にキャヴィア(ドイツではこう云う由)なのだが、このような録音が遺されたのは、彼女の日本文化に対する敬意と愛情が戦後も永く保たれたことの証しだろう。
彼女の著作には英語で読めるものもあり、"History of Japanese Music" (Oxford University Press, 1973) はいずれ通読してみたいと思う。またドイツ語では回想録 "Charaktere und Katastrophen" (Ullstein Verlag, 1978) があり、そこではゾルゲとの交友の顛末も記されているそうな。いつか挑戦してみたいものだ。
1986年、ウィーンで八十八歳の天壽を全うして歿。彼女を主人公にしたドキュメンタリーを誰か制作しないものか。
追記(12月15日)/
ドラマの第三夜まで観たが、どの回にもハーリヒ=シュナイダーが登場する場面があった。彼女の役どころはオランダのレーリング判事が東京で唯ひとり心を許せた友人という存在。判事も弁護人も被告たちも全員が男性というドラマに紅一点を添えている。終了後には彼女に関する簡略な紹介があり、ゾルゲとの恋愛のこと、上述した彼女の回想録にレーリングがちらと登場することなどが手短に語られた。