1969年から70年にかけて、年齢でいうと十六歳から十八歳にかけての日々は、わが音楽人生にとって決定的な意味をもつ。田舎者の高校生は恐ろしく無知で幼稚だったとはいえ、その後ずっと追い求めることになるクラシカル音楽の嗜好は、ほぼすべてこの二年間で身についたものだ。当時の音楽手控帖を捲ってみると、今とちっとも違わない自分自身をそこに発見して驚くやら呆れるやら。
音楽雑誌を立ち読みしていて、マルタ・アルゲリッヒ(当時の表記)の初来日を知り色めき立った。1969年秋口の頃だ。65年のショパン・コンクール優勝者としての名声は隠れもなく、当時すでに彼女のLPは何枚か出ていたから、日々ラジオに齧りついていればその演奏は難なく耳に入ってきた。
最初に手に入れたのは、プロコフィエフの第三番とラヴェルの両手の協奏曲を表裏に組み合わせたアルバム(グラモフォン SLGM-1438
→アルバム・カヴァー)。この出逢いの一枚はまさに啓示だった。電撃を喰らって立ち眩みし、夢うつつになった。そのあと、《ショパン・リサイタル》、ショパンとリストの協奏曲集、と次々に手に入れては聴き惚れた。全くもって度し難いミーハーなのだ。
そして12月13日、夕方遅くに帰宅すると梶本音楽事務所から封筒が届いていた。マルタ・アルゲリッヒの初来日公演、初日(1970年1月15日)の切符である。
さて、今日ここで回想したいのは、この恥じ多き遍歴のことではない。この日、すなわち1969年12月13日(土)はもうひとつの我が「運命の日」だった。
前にも書いたが(
→「デア・シュヴァーネンドレーアー」事始)、小生は高校の帰りに学生服のまま上京し、内幸町でNHK交響楽団の無料コンサートを聴いた。
ほどなく取り壊されてしまう旧NHKホールに赴いたのは後にも先にもこれが唯一の機会であり、N響を生で聴くのも初めて。そこで奏されたヒンデミットのヴィオラ協奏曲「
シュヴァンネン ドレーヤー」(抽籤葉書と引換に手渡されたチケットにはそう記されている)に強く惹かれた。なにより、これを弾いた若い女性ヴィオリストの妙技にぞっこん魅了されたのだ。この奏者こそ芳紀二十六歳の今井信子さんであり、(ちゃんと調べたわけでないが)この演奏会が実質的に日本デビューだったのではないか。少なくも在京楽団と共演するのはこれが最初だったと思う。期せずして歴史的な場に居合わせたことになる。
今井信子さんの演奏に心奪われた小生は、三日後の12月16日にも上京し、上野の文化会館の資料室でヒンデミットの "Der Schwanendreher" のLPレコードを試聴した。資料室にあったのは米Columbiaの輸入盤(ウィリアム・プリムローズ独奏)だけなので、かなり長文のライナーノーツを手帖にまるごと書き写している。われながら、その熱心さに正直なところ感心してしまう。昔の僕は偉かった。
そして一か月後の1970年1月11日、お年玉を握りしめ(だと思う)いそいそ上京した小生は、秋葉原の日の丸電気で心躍らせつつヒンデミットのコーナーを漁った。ただし、お目当てのプリムローズ輸入盤はとっくに廃盤で在庫せず、見つかったのは半年前(1969年7月)に出たこの一枚だけ。否も応もなくレジに持参した。
《ヒンデミット:白鳥の肉を焼く男/バルトーク:ヴィオラ協奏曲》
ヒンデミット:
白鳥の肉を焼く男 ヴィオラと小管弦楽のための古い民謡による協奏曲
バルトーク:
ヴィオラ協奏曲 (遺作)
ヴィオラ/ラファエル・ヒリヤー
渡辺暁雄指揮
日本フィルハーモニー交響楽団日本コロムビア OS-10044-J (1969)
グラズノーフ《四季》、オネゲル「第二」、《胡桃割り》全曲、そしてアルゲリッヒ三枚に続く、通算これが七枚目のLPである。「滅多にラヂオでは聴けない曲目」を架蔵するというひねくれた了見はなおも健在だった。
それにしても《白鳥の肉を焼く男》という邦題には何やら怪奇で残酷な響きがあってギョッとする。Der Schwanendreher は英語で "The Swan-Turner" だから直訳すると「白鳥を廻す人」。ヒンデミットが終楽章の変奏曲の主題に用いたドイツ古謡の名に因むタイトルなのだが、これを日本語にするのが難しい。
原曲の民謡は野生の白鳥を捕え、焚火で炙って食べる旅人に親しみをこめて呼びかける内容らしいから、曲想は鄙びて懐かしく、弾むような軽快さもある。これを「白鳥廻し」と訳したらなんのことか判るまいから「白鳥を炙る人」あたりか。《白鳥の肉を焼く男》では即物的すぎて奇異な感じだ。
それはともかく、このアルバムには強く惹かれた。とりわけA面《白鳥の肉を焼く男》はつくづく魅力的な佳曲だと改めて感じ入ったが、ここで聴くヴィオラは一か月前に生を聴いた今井信子さんのたっぷり朗々と歌う音色とはずいぶん違い、やや直線的でぶっきらぼう、即物的な響きだ。ヒンデミットのノイエザッハリヒカイト的な性格を前面に打ち出した演奏といえようか。
それもそのはず、ここで独奏する
ラファエル・ヒリヤー(Raphael Hillyer)は、かのジュリアード弦楽四重奏団の創立メンバーだった腕利きの奏者。この時点では退団してフリーの独奏者として活躍していた。それほどの名手がヒンデミットとバルトークの協奏曲を東京のオーケストラと正規録音する(どちらもヒリヤー唯一の録音だ)というのは劃期的な事件ではないか。そうなった事情は詳らかにしないが、彼はジュリアード四重奏団員だった1966年、二度目の来日時に単身で日本フィルの演奏会に登場し、渡辺暁雄の指揮でバルトークのヴィオラ協奏曲を協演しており(9月9日、第124回定期)、その縁でこの録音セッションが実現したのだろう。収録には二年をかけ、万全を期している(バルトーク=1967年8月31日&9月1日/ヒンデミット=1968年9月16日/東京、杉並公会堂)。
名演奏家が来日時に置き土産として録音を残す例は戦前から少なくないが、日本のオーケストラと協奏曲を録音した例は(少なくも当時は)きわめて珍しい。思い出されるのはランパルのモーツァルト(1964)と尾高尚忠(1968)、ガッゼローニのモーツァルト(1973)の協奏曲くらいだ。
版元の日本コロムビアにもこのLP制作が特別の企てである自覚があり、当時ここが力を注いだアルバムの例に漏れず、豪華な見開きジャケットを使用し、ヒリヤーへのインタヴューを含む富永壮彦の取材記事、門馬直美の手堅い楽曲解説に加え、録音セッションを特写した阿部克自(ジャズ写真家として名高い)のスナップ写真まで掲載している。かてて加えて、カヴァー装画には洋画家の木村鉄雄の半抽象画(白鳥を形象化したもので本アルバム用の新作か)を大きくあしらっている。まことに至れり尽くせりの豪勢な陣容なのだ。
にもかかわらず、このアルバムは当時は殆ど話題にもならず、売れ行きも捗々しくなく、ひっそり消えていったとおぼしい。手元のレコード目録を繙くと、1972年末の時点でもうカタログ落ちしているから、店頭に並んだのはせいぜい三年程度か。その証拠に、発売から半世紀近く経つが、このレコードを中古盤で見かけた機会が一度たりともない。よほど売れなかったのだろう。
ネット上をいくら渉猟しても、この音源については後にアメリカで出たNonesuch盤のLP(
→これ)や米Albany盤のCD(
→これ)への言及がほんの少しみつかるだけ。本家本元である日本コロムビアのオリジナルLPについては、誰ひとり話題にしていない。もちろん我が国では一度も再発売されず、完全に忘却の淵に沈んだままだ。こんな酷い話ってあるものか。つくづく不遇なアルバムというほかない。
追記1)
このアルバムから《デア・シュヴァーネンドレーアー》の終楽章のみYouTubeで聴ける(
→ここ)。米Albany Recordsがアップしたもの。日本コロムビアにはアルバムのCD覆刻を強く要請する次第だ。
追記2)
ヒンデミット《デア・シュヴァーネンドレーアー》のディスコグラフィを三年ほど前に作成したことがある。どなたかの役に立つかもしれないのでリンクしておく。
→ヒンデミット「白鳥を炙る人」ディスコグラフィ追記3)
《デア・シュヴァーネンドレーアー》の魅惑を教えてくれた今井信子さんは、爾来ずっとヒンデミットのヴィオラ作品をレパートリーの中核に据えているにも関わらず、肝腎のこの協奏曲をなかなか正規録音しなかった。
いつの日か彼女のディスクを手にしたいという願いは、実演を耳にしてからきっかり四十年後ようやく成就した。今井さんが《デア・シュヴァーネンドレーアー》をバルトークの協奏曲と一緒に初録音(ラファエル・ヒリヤーとおんなじだ!)したのは2008年12月のことだ。その全曲がYouTubeで聴ける(
→ここ)。伴奏指揮はガーボル・タカーチ=ナジ指揮ジュネーヴ高等音楽院管弦楽団。