今でも手元に一枚のシングル盤が残されている。いわゆるドーナツ盤である。しかもクラシカル音楽。回転数は毎分四十五回転だから、片面の収録時間はせいぜい六、七分が上限という小さな容量のメディアだ。
アルバム表には赤字で「音楽鑑賞レコード」と大書され、「第1集」「第5学年」「改訂小学校学校指導要領音楽準拠」と添え書きされている。小学校の音楽の授業で鑑賞教材として用いるためのレコードである。それがどういうわけか一枚だけ実家にあった。いつ、どんないきさつから到来したのか皆目わからないが、朧げな記憶ながら小学低学年の時分からずっと家にあったような気がする。
チャイコフスキー
組曲「くるみ割人形」
第一部 小序曲
第二部 行進曲・こんぺい糖の踊り
ロシア舞踊トレパック・アラビアの踊り
中国の踊り・あし笛の踊り
ユージン・オーマンディ指揮
フィラデルフィア管弦楽団コロムビアレコード EE-107 (1959) *¥600 ⓒ'59. 2
1960年代前半だったと記憶するが、父は仕事で米国施政下の那覇に出張して沖縄民謡のレコードを何枚か持ち帰り、それを聴くために携帯用の電蓄を購入していた。小型の機器だから直径十二インチのLP盤はターンテーブルに乗らず、もっぱら七インチ盤(シングル盤)と十インチ盤の小型ディスク専用である。
自分だけ悦に入っていてはまずかろうと思ったのか、父は子供の情操教育のため、気紛れにこの一枚を買い求めたのだろう。ジャケット裏面に「1959年2月」と刊行年記があるので、購入はやはり小生が低学年の頃だったと推察される。
偶然にも小生はこのバレエの原作であるE・T・A・ホフマンの長篇童話《くるみわりにんぎょうとねずみのおうさま》に熱中していた(『世界童話文学全集』第七巻「ドイツ童話集」講談社、1960年所収)。幼心にも読書を通して異界へと旅する面白さを知った最初の体験だったから、年末になると本棚からこの本を取り出して読むのを密やかな慣わしにした。云うまでもなかろうが、この物語はクリスマス前夜を舞台にした幻想奇譚なのである。
ちょうどそうした時期だったから、わが家に紛れ込んだこの一枚のシングル盤に、文字どおり魅了された。クリスマス前夜にこれをかけ、ホフマンの物語を読む。埼玉の田舎の小学生にしては高尚な、バタ臭い習慣だったと今にして思う。
・・・とここまで書いて、この話は前にも披露した気がして調べたら、やっぱりそうだ。三年前の十一月に同じ内容を書いていた。愚かだなあ、耄碌しているなあ。そこで旧文から一節を引いて話題を転じることにする。
四十五回転のドーナツ盤の表に裏それぞれ七分以上も音楽を詰め込んでいる。それでも終曲「花のワルツ」は収録できなかったわけで、だから小生は永らくこの組曲は「蘆笛の踊り」で終わるものと信じ込んでいたものだ。
とにかくこのディスクには世話になった。そっと針を乗せるとたちどころに夢心地に誘われる。チャイコフスキーの魔法だ。それから勿論オーマンディの。
そんなわけで、チャイコフスキーの《胡桃割り》との因縁には浅からぬものがあり、長じてクラシカル音楽の虜となってからも、この曲への愛着は薄れることがなかった。前項で紹介した二枚のLPに続き、小生はまたもや秋葉原のレコード店でバレエ音楽の全曲盤を求めている。1969年8月31日のことだ。
《チャイコフスキー/「くるみ割り人形」全曲》
チャイコフスキー:
バレエ音楽《くるみ割り人形》全曲
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮
ボリショイ劇場管弦楽団日本ビクター 新世界 SMK-7531 (1968)
アンセルメ亡きあとバレエ音楽の第一人者と目された若き俊才による《胡桃割り》全曲。いわゆる名曲の名演であるが、小生はどうしてもこのバレエ音楽を完全な形で聴いておきたかった。普段ラヂオで耳にするのは第二幕のディヴェルティスマンを中心にした組曲版だったから、物語を追いながらチャイコフスキーが書いたすべての楽曲を耳にしたかった。
小生が定評あるアンセルメ盤やドラーティ盤でなく、このロジェストヴェンスキー盤を選んだのは、「本場物」という意味合いもあったろうが、なによりもまず、全体で一時間半かかるこのバレエ音楽をなんと二千円のLP一枚に収録してしまったという「お徳用」な盤だったからだ。帯の惹句にもこうある。「
本場の名演を一枚に収録 驚異の超長時間録音」。
実家の電蓄では三十センチLPはかけられないので、近所に住んでいた叔父さん(正確には母の従弟)の家で聴いたのだと思う。そのときの印象はもう朧げだが、組曲では味わえぬバレエ上演の雰囲気をなんとなく想像して満足した。
バレエ好きの叔父は1957年のボリショイ・バレエ初来日公演にも足を運んだと思い出を口にした。会場は歌舞伎町のコマ劇場だったこと、《春の水》でオリガ・レペシンスカヤの妙技に見惚れたこと、全体としてボリショイ・バレエはアクロバティックだったこと、ピットの指揮者が若いのに禿頭で、プロコフィエフそっくりだったこと、などなど。その若禿げの指揮者こそ、当アルバムで聴くロジェストヴェンスキーその人だったのだ。ライナーノーツにも小倉重夫が回想している。
1957年8月、[ロジェストヴェンスキーは] ボリショイ・バレエ団一行と共に来日『白鳥の湖』『シンデレラ』『バフチサライの泉』といったグラン・バレエをはじめ数々の小品をも指揮している。
筆者が彼に会ったのは東京公演の初日(8月28日)コマ劇場の楽屋であった。当時彼は25才の青年で、ひたいの広い細身のスマートな人であった。落着いた物腰で彼は今終ったばかりの『白鳥の湖』についていろいろ話してくれた。そしてその水際立った手腕に驚くと共に彼の体全体に秀れた音楽性を感じた。彼は感情が高まってくるとよく指揮棒を置いてちょうど鷹が獲物に襲いかかる時のような格好で激しく指揮するのを今も明らかに記憶している。[後略]
夏の終わりに季節外れのバレエ全曲を耳にした理由ははっきりしている。それから一か月ほど後、小生は生まれて初めて生のバレエ公演に出向くことになっていた。倫敦のロイヤル・フェスティヴァル・バレエ団(今のイングリッシュ・ナショナル・バレエの前身)が初の来日公演で《胡桃割り人形》全幕を上演する。その切符を手に入れたのだ(二千円のB席=1階T列23番)。とにかく事前にチャイコフスキーの音楽を俄か勉強してから公演に臨もうという殊勝な考えだったのだ。
10月9日に新宿の東京厚生年金会館大ホールで上演された《胡桃割り人形》について、記憶していることはほんの僅かしかない。
手元には今もその公演チラシも、チケットの半券も、立派なクロース装のプログラム冊子まで残っているのに、一向に偲ぶよすがになりはしない。第二幕のお菓子の国の場面がいかなる情景だったか、各国の踊りからなるディヴェルティスマンがどんな趣向だったか。幕切れのパ・ド・ドゥーはどうだったか。悲しいかな、まるで思い出せないのである。
微かに憶えているのは、仄かな青い光で照らされた「雪のワルツ」の情景がたいそう幻想的で美しかったこと、その場面で日本の少女合唱団が下手側の袖に並んでヴォカリーズを歌ったこと、レコードで馴染んだボリショイの壮麗なチャイコフスキーに較べ、ピットから実際に聴こえてくる音楽(デイヴィッド・テイラー指揮の東京交響楽団)がいかにも貧弱だったこと。そんなところだ。