1972年、「ステレオ最新録音」と銘打たれて五枚のLPで出た「モスクワ音楽院に於けるムラヴィンスキー」は予期せぬ衝撃だった。
それまでムラヴィンスキーのステレオ録音といえば、ドイツ・グラモフォンがスタジオ収録したチャイコフスキーの三大交響曲のみ。あとは細部がぼやけたモノーラル録音しか存在しなかったから、1965年の鮮明なステレオ・ライヴの出現はまさしく青天の霹靂だった。1958、70年と二度も来日がキャンセルされ、ムラヴィンスキーを生で聴く機会はもうないものと諦めかけていた矢先、思いもよらない実況録音に夢中で聴き入ったものだ。
当時のリスナーは《ルスランとリュドミラ》序曲(アンコール曲)の途轍もない急速テンポにまず圧倒された。小生もその一人だが、それ以上にバルトーク《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》に打ちのめされた。ライナー、フリッチャイらハンガリー勢の解釈と大きく異なり、異様に生々しく、強靭な意志に貫かれた白熱の演奏に度肝を抜かれたのだ。
バルトークのほか、シベリウス、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、オネゲル──出自を異にする「同時代音楽」が果敢に取り上げられており、「ロシア・ソ連音楽の巨匠」という従来のイメージが根底から覆される思いがした。ムラヴィンスキーとはいったい何者なのか。このレパートリーの広さはどこから来るのだろうか。この夏、《大田黒元雄のピアノ》に引き続き、もう一枚のCDのライナーノーツ執筆に没頭した。前者の進行が遅れに遅れ、やっと後者に着手したときはもう締切日を過ぎていたのだから必死だった。上に引いたのはその冒頭の一節である。
昨日、渋谷のレコード屋で新譜の棚を覗くと、そのCDがすでに面陳されていた。調べたらネット上でも入手可能になっている(例えば
→ここ、
→ここ)。
《ムラヴィンスキー/バルトーク、ドビュッシー、オネゲル/1965》
バルトーク: 弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽
ドビュッシー: 牧神の午後への前奏曲*
オネゲル: 交響曲 第三番《典礼風》
フルート/ドミートリ―・ベーダ*
エヴゲニー・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団1965年2月28日、モスクワ音楽院大ホール(実況)
Grand Slam GS-2154 (2016)
→アルバム・カヴァー発売元キングインターナショナルのHPから「制作者から」なる紹介文を引こう。「制作者」とはこの音源を発掘し、本CDをプロデュースした平林直哉氏のことだ。Grand Slam は彼が主宰する覆刻専門の個人レーベルであり、小生はこれまでにポール・パレーを三点、ムラヴィンスキーを一点、都合四枚のCDのライナーノーツを寄稿してきた。だが、今回ほど歴史の謎に深くコミットした内容の文章を書いたことはなかった。体じゅうから脂汗が流れたのは夏の暑さのせいばかりではない。
ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが1965年2月、モスクワに出向いて行った数々のライヴ録音は、珍しいレパートリーと優秀な音質(ステレオ)で知られています。今回、2月28日の全演目を2トラック、38センチのオープンリール・テープを使用して復刻しましたが、以下の点にご留意下さい。まず、音質は過去に出たどのディスクよりも“はるかに” 生々しく、その凄まじい音響は背筋が凍るようです。当シリーズ始まって以来の、最大の衝撃と言っても過言ではありません。また、演奏開始の拍手はありませんが、インターバルや終わりの拍手など、その場に居合わせた雰囲気を伝えるものはカットしていません。
さらに、今回のCD化に際し、誤った情報を訂正しています。まず、演奏会当日の曲順は、このディスクのようにバルトーク→ドビュッシー→オネゲル、が正しいです。また、一部のディスクにはドビュッシーのフルート奏者はアレクサンドラ・ヴァヴィリナ、つまりムラヴィンスキー夫人と表記されていますが、これも誤りです。これらについては天羽健三氏(元日本ムラヴィンスキー協会事務局長)の制作によるディスコグラフィや演奏会リストを参照するとともに、当日出演したムラヴィンスキー夫人にも確認をとっています。つまり、このディスクは正確な曲順と正しいフルート奏者が明記された最初のものとなります。
解説は沼辺信一氏(編集者/20世紀芸術史)による力作です。沼辺氏は国内外の文献を読破し、旧ソ連の政治体制の中でムラヴィンスキーがどのようにして20世紀の音楽と関わりを持ったか、その周辺を可能な限り詳述しています。この点について、これだけ掘り下げた文章は、過去に存在しないと思います。
優れた音質、正確な情報、そして充実した解説と、持っていて良かったと思ってもらえるCDが完成したと自負しています。「
沼辺氏は国内外の文献を読破し」とはいささか修辞が大仰で恥ずかしいが、グレゴール・タシーのムラヴィンスキー評伝(現段階で類書がない)はもちろん通読したし、アリー・アルブレーシュのオネゲル評伝の関連個所、ソ連の音楽界に関するボリス・シュウォーツの古典的著作、さらには近年たて続けに出たスターリン治下の音楽行政についての研究書のあれこれにも世話になった。
「西側」の音楽に対する規制が厳しかったソ連で、ムラヴィンスキーがどのようにして「同時代音楽」と出会ったのか。1965年の時点でそれらの楽曲──彼は一連の演奏会で、シベリウスの《第七》、ストラヴィンスキーの《ミューズを率いるアポロ》、ヒンデミットの交響曲《世界の調和》も指揮した──をモスクワで演奏する歴史的な意味はどこにあるのか。当局からの干渉や圧力は受けなかったのか。
次々と脳裏に浮かぶ問いに、小生が十全に答え得たとは思わないが、少なくとも「意味のある問いかけ」を発し、いくつかの見逃せない事実や状況証拠から仮説を導き出し、それらの問いに自分なりの解答を与えようと努めた。
それは1973、75、77、79年と四度にわたるムラヴィンスキーの来日公演に日参した者が果たすべき責務、不世出の巨匠への恩返しになると考えたからだ。
それにしても、このディスクに聴く《弦チェレ》と《典礼風》の壮絶さには言葉を失うばかり。今はただ一言、ぜひとも聴いてほしい、否、誰もが聴くべき究極の演奏だと小声で断言しておこう。