レコードではさんざん聴いていた
ネヴィル・マリナー卿とその手兵
アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの実演に小生が接したのは、後にも先にもただ一回きり、2008年初夏の訪英時のことだった。それも彼らがかつて拠点としたロンドン都心の教会堂セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ、発祥の地での演奏会というので、大いに心がときめいたものだ。
その日の日記の当該部分を抜粋し再録する。
当日の小生はバービカンとウィグモア・ホールまで前売券を買いに赴き、オックスフォード・ストリートのHMVショップを物色したあと「ヘンデルの家」博物館を見学、ここで小さなレクチャー・コンサートを聴いた。それからヘンデルの家→ピカデリー・サーカス→レスター・スクエア→コヴェントガーデンと踏破して、ロイヤル・オペラの切符を確保した。歩きに歩いた一日だった。
2008年5月17日(土)
―前略—
午後六時。トラファルガー広場に戻り、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会のクリプト(地下空間)で早めの夕食を摂る。歩き疲れ、腹も減ったのだ。ポークチョップ、サラダ盛り合わせ、スコッチ・エッグ(茹で卵を肉入りポテト?でくるんだもの)、それにパンと赤ワイン。どれもなかなか美味、サラダに入った新じゃが(英語でも new potatos という!)がほくほくして旨い。
次第にクリプト食堂が人で埋め尽くされ、演奏会の始まりが近いことを知る。今夜はこの聖堂の改装工事がほぼ終了したのを記念するガラ・コンサートがあるのだ。
19:30- St. Martin-in-the-Fields
"Gala Concert of St. Martin-in-the-Fields"
バッハ: 幻想曲 ト長調 BWV572
オルガン/ニコラス・ダンクス
バッハ: モテット「主に新たな歌を歌え」BWV225
ニコラス・ダンクス指揮 セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ聖歌隊
ハイドン: 交響曲 第四十四番
ケネス・シリトー指揮 アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
モーツァルト: ミサ曲 ハ短調
ソプラノ/ソフィ・ビーヴァン、キャサリン・マンリー
テノール/ネイサン・ヴェイル
バス/マルクス・ヴェルバ
サー・ネヴィル・マリナー指揮
セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ聖歌隊
アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズご覧のとおり盛り沢山、いかにも祝祭に相応しい記念コンサートなので、聴きどころも満載なのだが、なんといっても真打登場よろしく、もともとここから指揮者としてのキャリアを出発させたネヴィル・マリナー翁(信じられないが、もうそういう歳なのだ!)が、久々にここでタクトをとるというのが今夕のハイライト。しかも、先日のヘレヴェッヘに負けず劣らずの凄演だったのだ。
倫敦に足繁く通っている先達である梅田英喜氏をして、「セント・マーティン教会でネヴィル・マリナーを聴いたためしがない」というから、今日のような機会は稀なのではないか。数か月前だったか、たまたまN響に客演したマリナーが振ったブラームス(第四交響曲)をTVで視聴し、それが余りにも素晴らしかったので、一度は生を体験したいものだ、と思っていた。今夜はたった一曲ではあるが、彼の船出の港である教会堂で聴けるのは僥倖である。
その印象を一言でいうならば、マリナーはモーツァルトを知り尽くしているな、ということ。豊穣でしなやかな歌心に満ち、オペラティックですらある。それでいて、きびきびとした峻厳性にも欠けていない。ここには「フィガロ」も「ドン・ジョヴァンニ」も、「ジュピター」も「レクイエム」もある。
たいそう充実した声楽陣。合唱はさすがに昨夜のヘレヴェッヘの手兵(コレギウム・ヴォカーレ)には精度で劣るけれども、音楽への全き没入と献身が感じられた。オーケストラについても同様だ。古楽アンサンブルではここまで構えの大きく壮麗なモーツァルトにはなるまい。
九時半に終了。満ち足りた気分で地下鉄とDLR(ドックランズ・ライト・レールウェイ)を使ってグリニッジの宿舎まで帰途に就く。ところが今夜またしてもDLRは信号故障。一駅手前のアイランド・ガーデンで運行取り止め。嗚呼。仕方なく、テムズ渡川トンネルをとぼとぼ歩いて帰宅。先日に続きこれで二度目なので、もう怒る気にもならない。
不味いとわかっているのに、またしても昨夜と同じ中華レストラン。歩き疲れて空腹だったのだ。