柴田南雄さんによる先駆的なシャルル・ケックラン紹介について、もう少し書いておきたい。
この《MUSIC TODAY~メシアン、ケックラン、ブーレーズ》と題されたLP(東芝、AA-9014, 1967年)は、アンタル・ドラーティ(メシアンとケックラン)とピエール・ブーレーズ(自作)がBBC交響楽団を振り分けた興味深い企画もので、英本国ではEMIだけでなく、一時はDecca系列のArgoレーベルから出たこともある。熱心なフランス20世紀音楽の愛好家の間ではそこそこ知られた音源だろう。
柴田さんはまずLP裏面のライナーノーツ冒頭でこう前置きする。
この一枚のレコードには、フランスの20世紀音楽の3つの断面が収められている。ちょうど1世紀前の1867年生まれのケクランの、意外におもしろい、力強く練達の手法を駆使して書かれた交響詩《レ・バンダール=ログ》、これは作曲者64才の1940年の作である。ついで1908年生まれのメシアンの特性的な《クロノクロミー》が、彼の52才の1960年の作、そして最も若い1925年生まれのブーレーズの《水の太陽》は彼が23才の1948年の、これは彼の出世作である。このように作風もちがい、またそれぞれの生涯での位置もほとんど対照的な3つの作品であるが、それらの底にはフランス音楽の微妙な感性、表現の節度、細部まで磨き上げられた仕事ぶり、といった特徴が感じられて興味深い。
これに続いて柴田さんは、メシアン、ケックラン、ブーレーズの各人について、簡にして要を得た紹介を草している。前項で紹介した文章はそのうちの「シャルル・ケクランについて」と題されたケックラン略伝の全文である。
かてて加えて、このLPには、二つ折りの別紙付録が封入されており、そこには同じく彼の執筆になる懇切な楽曲解説が記されている。ブーレーズの《水の太陽》に至っては、ルネ・シャール作の歌詞の対訳が掲載され、その日本語訳詞まで柴田さんが手がけている。まことに至れり尽くせり、痒いところに手の届く親切さである。LP時代のライナーノーツの充実ぶりの一例といってしまえばそれまでだが、ここでの柴田さんの八面六臂の活躍には今更ながら頭が下がる。
そこから「交響詩<レ・バンダール=ログ>OP.176について」と題された曲目解説を引こう。
この作品は1939年、作曲者72才の年に着手され、1940年1月26日に完成した。サキソフォーン、ピアノ、2台のハープと多くの打楽器を含む大オーケストラのために書かれている。初演は1946年12月13日に、フランツ・アンドレ指揮のブリュッセル・ラジオ・オーケストラにより、彼の《ジャングル・ブック》全曲の世界初演と共に行われた。スコアは出版されていない。
《レ・バンダール=ログ》はイギリスの小説家キプリングの有名な長編「ジャングル・ブック」(1894)に基く7曲のシリーズの最後の作である。最初の3曲(《あざらしの子守歌》、《ジャングルの夜の歌》、《カラ・ナーグの歌》)ははるか以前の1899年と1910年の間に書かれた。それらは独唱・合唱・オーケストラの比較的短い曲である。その他の曲はオーケストラだけで、もっとも長い《春の歩み》Op.95(1925~27)は伝統的な交響詩にもっとも近い作品である。《プルン・バガートの瞑想》Op.159(1936)は、一種の大規模なパッサカリアで、《ジャングルの王》Op.175(1939)は、フル・オーケストラの厳格な単旋律(モノディー)である。Op.175の極度の厳格さはOp.176の《レ・バンダール=ログ》の極度の豊かさと対照的である。「バンダール=ログ」とはキプリングがインドのジャングルの猿たちに命名した名である。ケクランは、「カーの狩」の話からヒントを得ている。
【作曲者によるノート】
「《レ・バンダール=ログ》の冒頭では、光にみちた朝の静けさが突然猿たちによって打ち破られる。彼らの騒ぎはグロテスクだが、彼らはしなやかに優雅にはねまわる。キプリングからもわかるように、猿は生物のなかでもっとも無駄でつまらない生物である。彼らは自分たちを発明の天才と信じこんでいるが実は粗野な物まねにすぎず、ただ流行を追いまわしている。猿はこの交響詩で、『現代の和声』のさまざまな手法を使っている。(しかしその使い方はひどいものだ。)最初はドビュッシー風の連続5度と9度である。それから彼らは『無調音楽』にとびつき、シェーンベルクとその弟子たちの12音技法に熱心に従う。しかしここで、森全体が彼らと共に歌い始め、無調は音楽的な、ほとんど抒情的なものになってしまう。この情緒的発展は猿たちを悩ませる。やがて彼らは『古典的である』ことを望み、人工的で奇妙な、にせの『バッハに帰れ』を試みる。これは「よい煙草」J'ai du bon tabac の主題による難しいわざとらしい複調となる。半音階的フーガがそれに続くが、ここでは主題と対主題が馬鹿げた対立をみせる。しかし再び森が現われて命令を下し、主題の新しい提示で、フーガを真の音楽に変える。
猿たちが帰って来て(独奏打楽器のパッセージ)、大騒ぎのうちに『バッハへ帰れ』の主題を持ち出す。しかし彼らの苦心作はジャングルの王者たち、バルー、バゲーラ、及び蛇のカーの出現によって中断される。恐ろしい召集ラッパに猿たちは逃げ去り、ジャングルははじめと同じ光にみちた静けさに戻る。ジャングルが歌うとき、それは複調語法や無調語法への純粋の讃歌なのである。」
驚くべきことに、ケックランの《バンダール=ログ》はキプリングの『ジャングル・ブック』に取材した交響詩という表向きの「顔」の下に、ケックランが身をもって体験した20世紀前半の西洋音楽の変転に対する、彼なりの厳しい総括と辛辣な批判を秘かに潜ませていた。これは震撼すべき「メタ・ミュージック」なのだ。
柴田さんはこの楽曲解説を次のような文言で締めくくっている。
第一の段階では「バンダール=ログ」は単にキプリングの猿族の物語の音楽的脚色と見なされる。第二段階では、それは部分的にはモーツァルトの《音楽の冗談》K.522と同種のものであり、また一部分はその種の典型的な否定的言辞に対する積極的な返答である。最初の段階は作品の最高の段階に至る。つまり秩序と混乱、真実と虚偽の闘争である。(1939年という作曲の日付はたしかに不適当ではない。)
「春の歩み」のスコアの欄外にケクランが書いた註がないとしても、「ジャングル・ブック」の音楽を聴けば、彼にとって(モー [グ] リにとってと同様)ジャングルが「事物と存在の神秘」をあらわしていることは明らかである。「バンダール=ログ」を屈服させたジャングルの最後の勝利は、神の秩序、あるいは自然の秩序の究極の勝利を示している。神秘的な暗示のうちに、また音楽的本質のあるものにおいて、ここには「クロノクロミー」に特にみられるメシアン後期の、自然の思索への兆候があきらかにみられる。
いささか晦渋な修辞ながら、ケックランの音楽に秘められた深遠な重層性とメタ・ミュージック性、そして第二次大戦後のメシアンへと繋がる先駆性までも指摘した、柴田さんならではの慧眼が光る洞察だろう。
作曲家としての柴田南雄が交響曲《ゆく河の流れは絶えずして》で、鴨長明の『方丈記』をテクストに、自らの経てきた時代的=音楽的変遷を半自伝的に表明するのは、この文章が書かれてから八年後、1975年のことである。