1867年、アルザスの両親の下にパリに生を享けたケクランは、長じてパリ音楽院に入り、マスネー、ジェダルジュ、そして後にフォーレに師事した。一生を地味な制作三昧の生活で過した後、1950年の大晦日にひっそりと世を去った。
シャルル・ケクランは現代音楽の巨匠たちの中でその作品がもっとも知られていない一人にぞくする。彼の故国のフランスでさえ、彼の音楽理論の書物、すなわちフーガと対位法に関する著作や、和声と管弦楽法に関するそれぞれ3巻と4巻づつの大論文などは有名であるが、作品はそれほど知られていない。しかし彼は生涯を通じて一度も公的な地位につかず、ごくわずかな生徒をプライヴェートに教えただけで、あとは前述のように制作に没頭していたのであった。(そのわずかな生徒の中にダリウス・ミヨーやプーランクがいるが、とくにミヨーの音楽は多くの点でケクランの影響を示している。)誰にきいても、ケクランは愛すべき、尊敬すべき人物であったという。彼は内向的な性格であったにも拘らず、自分の周囲の世界に強い興味を持ち、若い世代のために情熱的に戦った。彼は死ぬまでISCMの熱心な支持者であった。彼自身の音楽上の関心は決して偏狭なものではなかった。彼は20世紀のフランスのすぐれた作曲家のうちでは最初にシェーンベルクとその一派の作品を詳細に学んでいる。しかもそれはシェーンベルクたちが国際的にうけ入れられるずっと以前にである。彼は管弦楽法の論文の草稿を書いている時、シェーンベルクの《期待》OP.17のあるパッセージをそらで書くことができたということである。
音楽的教養の巾広さと純然たる技術的完成においては、現代フランス作曲家の中でケクランの右に出るものはいないと言ってもよい。作曲家としては彼は自分の思う通りにふるまった。そしてその源が中世であろうと第二次ヴィーン楽派であろうと、バッハであろうとドビュッシーであろうと、彼は触れたものすべてに自分の烙印を残さずにはおかない。時折自分の練習のためや、他の人々に例として書いた無数のフーガ、カノンなどもその例外ではない。
ケクランの莫大な作品量から見れば、今日未だごく小部分しか出版されていない。オーケストラや合唱の大作はすべて手稿のままだし、初演されていないものもある。明らかにケクランは自分の作品を宣伝することに殆んど、あるいは全然関心を持たなかった。この特長は、シェーンベルクのすぐれた弟子であったギリシャ人のスカルコッタスと同じである。もしも、彼の作品のより代表的なものが聴けるようになって一般に知られたならば、ケクランはたしかに、ドビュッシー以後のフランス音楽において傑出した人物の一人となるであろう。(1967・4 柴田南雄)以上の文章は小生が高校生の頃、生まれて初めて目にしたシャルル・ケックランに関する文章である。出典は《MUSIC TODAY~メシアン、ケクラン、ブーレーズ》なるLPアルバム(東芝 AA-8014)のライナーノーツより。
半世紀近く経った今、こうして書き写してしても、記述がたいそう精確で少しも古びていないことに感嘆させられる。最後のくだりには、今日のケックラン復興を予見するような鋭い洞察が示されていて驚かされる。
小生たちの世代は、こうして知らず知らずのうちに、柴田南雄の文章やラジオ解説を通じて蒙を啓かれ、未知の音楽へと導かれたのだった。かくも博雅で見識ある先達を得た私たちはなんと幸せだったことか。
今日は柴田南雄の満百歳の誕生日なのである。