今しがた中村紘子さんの訃報が朝日新聞ネット版の「号外」として伝えられた。どんな人間も不死身ではないのだから、たじろいではならないのだが、この人はいつまでも驚異的に若々しく、老いや死とはまるで無縁と思い込んでいた。ここ二年ほど癌を患い、入退院を繰り返していたとも知らず、藪から棒にこの報道に接した。享年七十二は今どきの女性としては早すぎる。現役を貫いたピアニストだし、あれだけ筆の立つ人だから、もっと生きて回想録を書いてほしかったと痛切に思う。
中村紘子さんは1965年のショパン・コンクールで四位に入賞した。あのマルタ・アルヘリッチが第一位に輝いた年のことだ。
東洋人でただ一人、しかも最年少(芳紀二十歳!)での受賞ということでワルシャワでの彼女の人気は凄まじかった。コンクールで協奏曲の伴奏指揮をした名指揮者ヴィトルド・ロヴィツキにもたいそう可愛がられたようで、彼女はそのあと幾度も同地に招かれ、ロヴィツキ&ワルシャワ・フィルとの共演を重ねている。1970年に大阪万博でロヴィツキとその手兵が来日した際もソロイストとして各地で共演し、ショパンの第一協奏曲の録音も残している(
→これ)。
1965年のショパン・コンクールで、両者を捉えたスナップショットが残されている。本選会に臨む中村さんの緊張をほぐすためだろうか、ロヴィツキが彼女に何事か話しかけ、小さな花束を差し出す素敵な写真だ(
→その1、
→その2)。
その中村紘子さんが指揮者ロヴィツキとの思い出の一齣を綴った文章がある。ごく短いものだが、とても心温まる内容なので、修辞の見事さと相俟って、いつまでも記憶に残っている。
たしか以前ロヴィツキの生誕百年の記事で引いたことがあるが、改めてその全文をここに書き写すのをお許しいただきたい。題して「ロヴィツキ夫人のコーヒー」。
コーヒーを飲んでいるとよく思い出すのは、大のコーヒー党であるロヴィツキ氏とその小柄で優しいヤシュカ夫人のことだ。
ある時、私はワルシャワでの追加公演で急にチャイコフスキーの協奏曲を弾くことになって、あわてたことがある。そこで私は、もうメンバーも皆帰ってしまったワルシャワのフィルハモニアの、恐しいほど静かで暗くガランとしたホールに残って、一人猛練習をすることにした。やがて夜も更け、草木も眠る丑満時、ふとどこからか足音が近づくのが聞えてきたのだ。ゾクッとしてふり返ると、思いがけずもロヴィツキ氏だった。
「ヤシュカからだよ、よろしくって」
と云って彼が差し出した大きなバスケットの中には、熱いコーヒーのたっぷり入った魔法ビンにサンドウィッチ、リンゴにオレンジに、ホームメードのフルーツケーキに、そしてチョコレートまで入っているではないか!
「ヤシュカが御成功を祈りますって・・・・・・。コーヒーは例によってお砂糖なしだね?」
そう云ってカップに注いで下さったあの一杯のコーヒー、深夜のフィルハモニアでロヴィツキ氏と飲んだあの熱い香りを、私は一生忘れることができないだろう。──EP盤 "Echo Library of World's Classic Music" 40(学研 SG541、1973)
謹んで中村紘子さんのご冥福をお祈りする。