子供の頃からひねくれ者を通してきた小生には小・中・高校でほとんど友人がいなかった。なにしろ埼玉の田舎だったので美術や音楽への関心を共有できるような相手が見つからなかったのだ。中学二年のときビートルズが来日しても昂奮している者はクラスに誰一人いなかったし、高校は男子校だったこともあり、校風に馴染めず、ひたすら暗黒時代の三年間。だから同級生の顔も名前もとんと覚えていない。まるで少年期の記憶を喪失してしまったかのごとく。
そのなかで唯一はっきり思い出せるのは高校三年で同級になった門倉君のことだ。ブラスバンド部でクラリネット演奏に打ち込んでいた彼は、ベルリン・フィルの若き首席奏者カール・ライスターに夢中になり、1970年5月にカラヤンとベルリン・フィルが来日したとき、「どうしてもライスターに逢いたい」と言い張って、一緒に宿舎の帝国ホテルまで赴いたことがあった。旧稿から引く。
彼のライスター熱は収まるどころか昂ずる一方で、大阪万博でベルリン・フィルが来日した際、「どうしてもライスターに逢いたい。会ってその楽器を間近に見たいんだ」と強く希い、小生を連れ出して帝国ホテルまで出向いたのだ(宿泊ホテルがどうして判ったのかは謎だ)。フロントで部屋番号を聞きだし(よく教えてくれたものだ!)、そのフロアまでエレヴェーターで上がり、廊下をうろついていたら、本物のライスターとばったり出くわした。「ボクラハにっぽんノコウコウセイ、アナタノネツレツナふぁんデス」とかなんとか上ずった声でおずおず話しかけたら、「このあと日本のクラリネット奏者たちから会食に誘われている。君らも行かないか?」と誘われた。こうして信じられぬことに、学生服を着た田舎の高校生ふたりもライスター歓迎会で図々しく末席に連なることと相成ったのである。会場はたしか新宿のステーキ屋「瀬里奈」だったように記憶する。
よほど昂奮していたのだろう。どんな食事がふるまわれたのか、いかなる式次第だったのかは全く記憶にない。ただライスターが若々しく(なにしろ三十二歳だ)とても上機嫌だったこと、N響の浜中浩一、朝比奈千足をはじめ、日本中の名だたるクラリネット奏者がずらり居並ぶ光景が壮観だったことは憶えている。
周囲の奏者たちは皆とても親切で、招かれざる客である高校生の我々をライスターに引き合わせてくれたばかりか、「楽器を見たい」という彼の願いもちゃんと叶えられた。会の最後に色紙が回され、参会者全員で寄せ書きしてライスターに進呈した。我々ふたりも隅っこに小さく記名し「アマチュアの学生」と拙い英語で書き添えたものだ。
1970年5月、カラヤン&ベルリン・フィルの三度目の来日時の出来事である。
あまりにも面白すぎる記憶なので、「もしかしたら自分が捏造した偽の思い出かもしれない」と、ちょっと心配になる。田舎の高校生ふたりが都心の格式あるホテルに外来演奏家を訪ねていくだけでも大冒険だろうに、思いがけない成り行きでクラリネット奏者たちが催した歓迎会にまで列席してしまう。そんなにとんとん拍子に事が進むはずはなかろうに、とわれながら訝しく思えてしまう。
ところがこれは正真正銘、紛れもない真実であることが四十六年後に判明した。
昨日のこと、その門倉君と四十数年ぶりに再会を果たし、事の次第をしかと確かめることができたのである。
彼の云うにはベルリン・フィルの楽団員の宿舎が帝国ホテルであると何かの記事で読んで知り、勇を鼓してホテルを訪ねると、信じがたいことにフロント係が親切にライスターの部屋番号を教えてくれた。宿泊階まで上がって廊下を行きつ戻りつしていたら突然ドアが開いてライスター本人が現れ、しばらく立ち話をしていると、歓迎会の迎えの人がやってきた。そのときライスターご当人が「この学生たちも会に加えてやってくれ」と口添えしてくれて、めでたく同席が叶ったのだという。なんという偶然、なんという僥倖、なんという親切だろう!
再会場所は彼の住む埼玉の街にある鰻屋の個室。名だたる老舗だそうで昼食時にはごった返していたが、彼が予約しておいてくれたお蔭で我々はすんなり個室に通され、あとは心おきなく杯を重ね、刺身や天婦羅、そして鰻重に舌鼓を打ちつつ、思うさま懐旧談に耽った。懐かしさで涙がこみ上げた。
嬉しいことに彼は今でもクラリネットを手放さず、細君やお子さんと室内楽を愉しんでいるという。なんだか羨ましい境遇である。彼の口からは小生の全く耳にしたことのないフィビヒやコールリッジ=テイラー、フィンジなどのクラリネット曲が次から次へと飛び出し、「歴代のクラリネット五重奏曲の五大名曲はなんだと思う?」と問われた。ええと、モーツァルト、ウェーバー、ブラームス、それからマックス・レーガー、ええと、あとは・・・と小生が口籠もっていると、すかさず「ローベルト・フックスの五重奏曲」と返される。ああ、まるきり知らないなあ。