この国に暮らしていると夏至が実感できない。雨季の真っ只中だからだ。今年は珍しく梅雨の晴れ間で終日ずっと好天で雲間から強い陽光が射した。その代わり蒸し暑さはかなりのものだ。もう夏の盛りといいたいほどに。
せっかくなので夏至にふさわしい音楽を。誰もが思いつく選曲だが、真夏のような暑さに免じてお許しを。
"Felix Mendelssohn: A Midsummer Night's Dream"
メンデルスゾーン:
序曲《真夏の夜の夢》作品21
劇音楽《真夏の夜の夢》作品61* **
交響曲 第四番「イタリア」作品90
語り/ケネス・ブラナー*
ソプラノ/シルヴィア・マクネア**
メゾソプラノ/アンゲリカ・キルヒシュラーガー**
合唱/エルンスト=ゼンフ合唱団(女声)**
クラウディオ・アッバード指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団1995年12月31日、ベルリン、フィルハーモニー(実況)
1996年7月28日、ロンドン、ホイットフィールド・ストリート・スタジオ1*
Sony SK 62826 (1996)
→アルバム・カヴァーシェイクスピアの "A Midsummer Night's Dream" の邦題を《夏の夜の夢》と記すのにずっと違和感を覚えている。何故《真夏の夜の夢》ではいけないのだ。
大方「
日本語で『真夏』というと誰しも八月を考えてしまう。ところがこの芝居は夏至の夜が舞台なので、真夏ではおかしいのだ」という尤もらしい理屈からなのだろう。だが私見によればこれこそが小賢しい屁理屈なのであり、シェイクスピアが "Summer" ではなく ”Midsummer" とわざわざ外題をつけたのだから、そのニュアンスをなんとか日本語に反映させるのが翻訳者の務めというものだ。単に「夏」とお茶を濁すのでは安易な責任放棄だろう。
表題を《夏の夜の夢》とする悪習は、古くは1940年刊の岩波文庫版の
土居光知訳あたりに端を発するとおぼしいから、もう随分と長い間はびこっている。うるさ方の
福田恆存(新潮文庫)も、一世を風靡した
小田島雄志(白水Uブックス)も、新風を吹き込んだ
松岡和子(ちくま文庫)も、最新訳の
河合祥一郎(角川文庫)までが、まるで申し合わせたように《夏の夜の夢》なのだ!
なので小生は益々意固地になつて、坪内逍遙の『沙翁全集』の顰みに倣ひ、誰が何と云はうとも頑に《眞夏の夜の夢》と表記する事にしてゐる。尤も近年の氣候變動に據り、夏至の季
節だつて今や眞夏竝みに暑苦しい。それこそ今日のやうにだ。
いかんいかん、ただでさえ暑い夜なのに、頭から湯気を立ててどうする。
気を取り直してメンデルスゾーンの《真夏の夜の夢》を聴こう。それも愛惜おく能わざる極上の演奏で。ついに巨匠になり損なったアッバードだが、これは実に可憐で愛すべき佳演である。淀みない音楽の運び、巧まずして漂いだす夢幻の気分、このうえなく精妙なベルリンの管と弦。マクネア嬢とキルヒシュラーガー嬢の玲瑯な歌声が錦上に華を添える。ケネス・ブラナーの語りはまあ普通。
うっとり夢心地になり、過日たまたま家人と池袋の映画館で観たジュリー・テイモア演出の《真夏の夜の夢》の上演ライヴ映像(2014年、NY、ブルックリン、シアター・フォー・ア・ニュー・オーディエンス)の夢のような舞台をゆかりなくも思い浮かべた。あれは本当に想像を絶する凄い舞台だった(
→予告編)。
聴き終えて一服しに表へ出たら中空の雲間から満月が覗いている。夏至の晩に十五夜が望めるのは珍しい。一生に何度あるか。これぞ真夏の夜の夢というべきか。