またぞろ「デッカ・サウンド~モノ・イヤーズ」なる53CDsのボックス・セットから、とびきり稀少なモノーラル音源を紹介しよう。今日はフランス音楽。
"CD 34 LINDENBERG ー Bizet, Chabrier, Debussy"
ジョルジュ・ビゼー:
小組曲《子供の遊び》*
組曲《美しきパースの娘》*
エマニュエル・シャブリエ:
田園組曲*
音楽讃歌**
女奴隷の六重唱とジプシーの歌 ~《不承不承の王様》***
ドビュッシー:
《選ばれし乙女》****
エドゥアール・ランダンベール指揮*
ジャン・フルネ指揮** *** ****
パリ音楽院管弦楽団
ソプラノ/ジャニーヌ・ミショー** *** ****
メゾソプラノ/ジャニーヌ・コラール****
テノール/ジャン・モリアン***
エリザベト・ブラッスール合唱団** *** ****1953年6月12~15日*、1952年6月16~30日** *** ****、
パリ、ラ・メゾン・ド・ラ・ミュテュアリテ
Decca 478 7980 (2015)
→元LPアルバム・カヴァー(ランダンベール)
→元LPアルバム・カヴァー(フルネ)
エドゥアール・ランダンベール Édouard Lindenberg(1908~1973)という指揮者をご記憶の方は殆どおられまい。ネット上にも情報が極度に少なく、実は上に記した生歿年すら確証が得られないままだ。あちこちの断片的な記述を綴り合わせると彼の生涯が朧げながら浮かび上がる。
ドイツ系の両親のもとルーマニアに生まれた彼は、 長じてヘルマン・シェルヘンに師事して指揮者の道を進む。1940年代にブカレスト国立音楽院で教壇に立ち(同僚にコンスタンティン・シルヴェストリがいた)、セルジュ・コミッショーナらを教えた。この時期は
エドゥアルト・リンデンベルク Eduard Lindenberg と名乗っていたらしい。1950年の初め(?)頃パリに拠点を移し、パリ音楽院管弦楽団、フランス放送国立管弦楽団、コンセール・パドルー管弦楽団を指揮してモノーラル期に相当数のレコーディングを手がけた(ヘンリク・シェリングやジェラール・スゼーの伴奏指揮を含む)。その他ウィーン室内管弦楽団を振ったバッハの管弦楽組曲のLPもある。ステレオ時代には北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してブラームスの交響曲(全曲)、ベートーヴェンの「第五」「田園」「第七」、チャイコフスキー《悲愴》、ドヴォジャーク《新世界》などを録音。エラートの廉価盤で「エドゥアルト・リンデンバーク指揮」によりブラームスの交響曲に親炙した初老世代は少なくないはずだ。もはや記憶の彼方だろうが。
晩年のランダンベールが依然パリを本拠としていたのか、ルーマニアへ里帰りする機会があったか、などは今の小生に調べる術がない。1968年にエラートから出たダニエル=ルシュールの《舞踊交響曲》のLP(ORTF室内管弦楽団、
→これ)は小生が知る彼の最も後期の録音である。
小生がこのランダンベールの名を忘れずにいるのは、彼が指揮したサン=サーンスの《動物の謝肉祭》の十インチ盤(仏Odéon)がたいそう魅力的な演奏だったからだ。それもそのはず、当録音(1950年代初頭)にはピアノのレイモン・トルアール(Raymond Trouard)とジェルメーヌ・ドヴェーズ(Germaine Devèze)、ヴァイオリンのアンリ・メルケル、チェロのアンドレ・ナヴァラなどフランス屈指の錚々たる演奏家が参加しており、作曲者が思い描いた高雅で上品なアンサンブルが愉しめる。しかもジャケットには米国を代表する戯画家
ソール・スタインバーグ(Saul Steinberg)がウィッティで魅力的な線画を寄せており(
→ここを参照)、アルバム・カヴァー愛好家にとっては見逃せない蒐集対象でもある。
つい前置きが長くなってしまったが、ここまで申し述べたのが予備知識、すなわち小生がランダンベールについて知っているニ、三の事柄である。そのうえで、この異邦人がパリ音楽院管弦楽団を指揮したビゼーとシャブリエを耳にして、小生は驚きを禁じ得なかった。それらは稀にみる秀演だったからだ。
これぞ由緒正しいフランス音楽──明澄でどこか閑雅な響きに、たちまち胸が一杯になる。亡命ルーマニア人が紡ぎだした音楽とは俄かに信じられないほどだ。とりわけ木管楽器群のほれぼれするような音色は、現今の仏楽団からは絶えて久しい美風である。もっともランダンベールはただそれに乗っかって指揮しただけでなく、随所で音楽を引き締め、歌わせ、適宜コントロールを怠らない。音楽性に裏打ちされた統率ぶりが甚だ見事。彼が振った仏蘭西音楽をもっと聴きたくなる!
ところでランダンベールには二歳年下の妹ヘドヴィヒ(Hedwig Lindenberg)がいた。結婚してヘッダ・シュテルン(Hedda Stern)と名乗った。ウィーンとパリに遊学し、シュルレアリスムの感化を受けたのち、ナチスの脅威を逃れて1941年に渡米し、ここでペギー・グッゲンハイムの支援のもと抽象絵画を目指す。米国での名は
ヘッダ・スターン(Hedda Sterne)。
ヘッダ・スターンの名前にはたしかに見憶えがある。それもそのはず、彼女は第二次大戦後、ニューヨークの仲間たちと抽象表現主義の画家グループ「怒れる者たち The Irascibles」を結成し、その唯一の女性メンバーとなる。1950年11月に撮られた史上名高い集合写真にも、彼女はバーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、クリフォード・スティル、ロバート・マザウェル、アド・ラインハートらと一緒に、紅一点として写っている(
→この写真)。
渡米後の1944年ヘッダは離婚、ほどなく再婚するが、その後もスターン姓を名乗り続けた。このときの再婚相手がほかでもない、
ソール・スタインバーグ (1914~1999)だったのである! 彼もまたルーマニア出身で、イタリア留学中に第二次大戦が勃発、ファシズムの魔手を逃れてドミニカに渡り、命からがらアメリカへ逃れてきた亡命者だった。
これでもうおわかりだろう。在パリの指揮者エドゥアール・ランダンベールにとって、ソール・スタインバーグは実妹の亭主、すなわち義理の弟なのだ。
フランスで出たランダンベール指揮《動物の謝肉祭》のアルバム・カヴァーを、遠く離れた在ニューヨークの戯画家スタインバーグが手がけた背景には、ルーマニアからの亡命芸術家の「強いられた長旅」の歴史が人知れず刻まれていたのである。