イェフディ・メニューインの生誕百周年の当日なのだというので、最も手近なところにある一枚を取り出す。出自も年代もまちまちなセッションを寄せ集めたアンソロジーではあるが、これらの楽曲(とここでは省かれたバルトーク作品)を聴けば同時代音楽に対するメニューインの立ち位置が自ずと見えてくる。その意味でこれは重宝な「早わかり」アルバムといえるかもしれない。
"Enescu/Szymanowski/Prokofiev/Ravel: Yehudi Menuhin"
エネスク:
ヴァイオリン・ソナタ 第三番*
シマノフスキ:
ノットゥルノとタランテッラ 作品28**
プロコフィエフ:
ヴァイオリン・ソナタ 第一番***
ラヴェル:
ハバネラ形式による小品****
ツィガーヌ*****
ヴァイオリン/イェフディ・メニューイン
ピアノ/ヘフツィバー・メニューイン*、マルセル・ガゼル** *** ****、アルトゥール・バルサム*****1936年1月6日*、1935年12月21日**、パリ、ステュディオ・アルベール
1948年9月30日、10月1日***、1943年4月6日****、ロンドン、アビー・ロード第三スタジオ
1932年5月20、23日、パリ*****
EMI Référence 5 65962 2 (1996)
→アルバム・カヴァー神童メニューインは十代で渡仏し、ジェオルジェ・エネスク(ジョルジュ・エネスコ)に師事し、公私ともに深甚な影響を受けた。エネスクの仲間たちとの室内楽を愉しみ、エネスク指揮で協奏曲をいくつも録音した。恩師とルーマニアへ旅し、旅籠でジプシーが奏でるフィドル演奏に親しく耳を傾けた。メニューインが弾くエネスクの第三ソナタが余人では為し得ないオーセンティシティに満ちて響くのは当然の成り行きだろう。堂に入った演奏とはまさしくこれだ。
それとは対照的なのがプロコフィエフの第一ソナタ。そもそもメニューインは同じパリで過ごした一時期がありながら、プロコフィエフとは殆ど接点がなく、その協奏曲を一度たりとも弾いていないと思う。その彼がプロコフィエフの第一ソナタを1948年という早い時期にレコーディング(おそらくソ連国外での初録音)したのはきわめて異例な事態と云わねばならない。
そうなった理由は明らかだ。メニューインは1945年11月、逸早くモスクワ楽旅を敢行した。このときダヴィド・オイストラフは彼を飛行場に出迎え、ともにバッハの二重協奏曲を演奏するなど親交を深めた(
→モスクワでのメニューイン。左端にオイストラフ、中央の髭爺は指揮者アレクサンドル・オルロフ)。
ちょうどこの時期、プロコフィエフはボリショイ劇場でのバレエ《シンデレラ》世界初演(1945年11月21日)リハーサルに忙殺されており、おそらくメニューインの演奏会に足を運ぶ暇はなかったと推察される。メニューインのモスクワ滞在も、タッチの差で新作バレエ上演とずれてしまっていた。とはいえ、オイストラフ自身の口から「目下プロコフィエフは自分のためにヴァイオリン・ソナタを作曲中だ」と話に聞かされていただろう。きっと凄い傑作になることだろう、と。
戦前から断続的に書き継がれたヴァイオリン・ソナタがようやく完成し、オイストラフの手でモスクワ初演されたのが1946年11月。それからほどなくメニューインの許に楽譜が送られてきた。「
ダヴィッド・オイストラフがプロコフィエフのソナタの譜面コピーを私に届けてくれた。完成直後のことだ。もちろん、心躍る出来事だった」(CDライナーノーツに引かれた1996年のインタヴューより)。時をおかずメニューインがこれを録音したのは、些かの功名心もあったろうが、オイストラフの友誼と好意に報いるためだったのは明らかだろう。
上述したように、メニューインはプロコフィエフの語法に馴染が浅く、この晦渋なソナタに梃子摺っているのは明らかだ。云ってみれば自己流で闇雲に取り組んでおり、最終楽章ではほとんど破綻寸前なところもある。そうした不器用な手探り感も含め、この演奏の味わいだと云えなくもない。メニューインがこれをレパートリーにした形跡はない。彼はどこまでも正直な演奏家なのである。