この4月1日、まるで嘘のように呆気なく鮮やかに、さも当然であるかのごとく発刊された新潮文庫「村上柴田翻訳堂」シリーズ。文庫本に差し込まれた宣伝チラシから、柴田元幸さんの「ごあいさつ」を引く。
これまで二十七年くらい、主として現代アメリカ小説を訳してきました。古典や準古典のすぐれた作品は文庫棚にちゃんとあるのだから、僕は「新しい」ものを訳そう、「まだ知られていない」作家を紹介しよう、という思いで自分でも大いに楽しみつつ仕事をしてきたし、これからもしようと思っています。ただ、気がつくと、文庫棚に並ぶ古典や準古典の顔ぶれは、だいぶ寂しくなってきているみたいです。少し前だったら、みんなが何となく聞いたことくらいはあった作家や作品が、「もう知られていない」になってきている。ならば、そういう本も、現代作家と同じくらい、いまや「新しい」のかもしれない。そう考えて、このシリーズを村上さんと始めます。新しい小説を世に送り出すときと同じことですけど、「こういうのが読みたかったんだ」と思ってくださる方が大勢いらっしゃいますように。その意気やよし。新訳を文庫本で、というのも、なおよし。その第一弾として村上春樹がカーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』を、柴田元幸がウィリアム・サローヤンの『僕の名はアラム』を選んだことに、云い知れぬ歓びを禁じ得ない。どちらもわが懐かしのアメリカ小説だからだ。
今日ここで書きたいのは、そのサローヤンの "
My Name Is Aram" についてだ。ただし柴田さんの魅力的な新訳ではなく、遙か昔──今から七十五年も前にひっそり世に出た日本初訳のことだ。手元にあるその一冊をそっと繙く。
表紙カヴァー(表紙本体にも)に、淡い色調で描かれた瀟洒なイラストレーション。農場のような場所の入口に、少年がひとり佇む図柄である。入口のアーチには "MY NAME IS ARAM" の書き文字が読める。そしてその下に明朝体レタリングで「ムラアは名がわ」──もとい「わが名はアラム」──と題名が記される。その下には「ウ
ヰリアム・サロイヤン」、更に下に小さく「清水俊二譯・山下謙一繪」とある。
わが名はアラム
ウヰリアム・サロイヤン
清水俊二譯・山下謙一繪
六興出版部刊
昭和十六年十一月十五日發行
定價貳圓九拾錢
奥付に記された発行日「昭和16年11月15日」を目にして、暗然たる思いに捉われぬ者はいないだろう。真珠湾奇襲による日米開戦の僅か二十三日前なのである。逆にいうならば、この一触即発の危うい時期に、よくぞまあ最新流行のアメリカ小説が翻訳刊行できたものだ、との驚きも禁じ得ない。
サローヤンの短篇集 "
My Name Is Aram" がニューヨークの版元 Harcourt, Brace & Company から刊行されたのは1940年12月。それから一年も経たないうちに邦訳が出たことになる。小生は以前ここでマッカラーズの処女作 "
The Heart Is a Lonely Hunter"(1940)が原著の半年後に邦訳が刊行された事実に驚きを表明したが(
→カアスン・マックカラーズの「話しかける彼等」)、それに勝るとも劣らぬ驚異的な早さなのだ。
『わが名はアラム』はアメリカ西部に暮らすアルメニア移民の少年アラムの眼を通して市井の人々の日常を描いた短篇集。のどかで牧歌的な生活が飄々とのびやかな筆致で活写される。発売と同時にアメリカで多くの読者を得た。
清水俊二は当時パラマウントの日本支社を退職し、友人たちと「六興商会出版部」を興して、出版界に活路を見出そうとしていた。何か面白い翻訳物はないかと物色していて、ロサンゼルス在住の上山智恵(映画スター上山草人の息子・平八の妻)から「この作家は必ず名を挙げる」との折紙つきで本書が送られてきたのだという。智恵夫人はサローヤンと小学校時代の幼馴染だった由。だから本訳書は当時としては珍しくサローヤン本人から翻訳許可を取っていた。
せっかくなので、最初の瑞々しい一篇「美しき白馬の夏」の冒頭を少しだけ引く。
私が九つになつたときのことだつた。そのころはまだ世のなかにすばらしいことがいくらでも想像できたし、人生が樂しい神祕な夢であつた懷しい時代であつたが、ある日のこと、私をのぞくすべての人間から氣が變だと思はれてゐた從兄(いとこ)のムーラツドが、夜あけの四時に私の家へやつてきて、部屋の窓をたたいて私を起した。
アラム、と、彼は言つた。
私はベッドからとび起きて、窓の外(そと)を眺めた。
私は私の眼を信ずることができなかつた。
まだ夜は明けはなれてゐなかつたが、夏のことであつたし、まもなく曉の光がさしはじめる時刻だつたので、夢ではないといふことを悟るぐらゐの明るさはあつた。
從兄のムーラッドは美しい白馬にまたがつてゐた。
私は窓から頭をつき出して、眼をこすつた。
まちがひぢやないよ、と、彼はアルメニア語で言つた。馬だよ。夢を見てるんぢやないんだ。乘りたければ、大急ぎで出ておいで。どうです、いいでしょう、魅力的な書き出しなので先が読みたくなる。清水俊二の訳文も、爽やかな抒情を漂わせ、瑞々しく平明な美しさに満ちている。遙か後年、清水は自叙伝のなかで、『わが名はアラム』を回想して、
[・・・] ゆたかな詩情と独特の文体が特色で、サロイヤンの代表作の一つになっている。私は大いに食指が動き、編集会議では反対もあったが、私の言い分がとおって、翻訳にとりかかった。私の四十数冊ある翻訳書のなかでもできばえに自信がある一冊である。と、懐かしくも誇らしげに述懐している。
生涯で千数百本もの映画字幕を手がけ、戦後はレイモンド・チャンドラーの一連のハードボイルド探偵小説の名訳で世を唸らせた翻訳の大家が、若き日(翻訳・刊行時に三十四歳)の訳業『わが名はアラム』の出来映えを自負しているのだ。
サローヤンの飄逸な文章、清水俊二の達意の翻訳に加えて、この六興出版部刊『わが名はアラム』をひときわ輝かせたのは、装幀と挿絵を担当した山下謙一のずば抜けたセンスのよさである。
上に述べた表紙とカヴァーのほか、山下は冒頭のカラー口絵(窓外の白馬の出現を描いた秀逸な絵)、赤と黒の二色刷り別丁挿絵を四枚、各章それぞれに寄せた扉絵十七枚を寄せており、それらすべてが純真素朴で、しかも垢抜けた仕上がりをみせる。私見では、戦前の児童文学・少年文学の挿絵で、ここまでの高みに到達した例はほとんどないように思う。
山下謙一(1909~1943)は東京府麻布狸穴町の生まれ。芝浦の東京高等工芸学校図案科を卒業後、松竹の洋画宣伝部と日活の宣伝部で映画広告に携わったあと独立し、京橋に自らの事務所を構えた。
1937年には東京社が刊行する児童絵雑誌『コドモノクニ』の挿絵画家に名を連ね、木村俊徳、横山薫次、栗田次郎らとともに同誌のモダニズム指向の誌面一新に貢献した。このほか同年やはり東京社から出た知識絵本シリーズ『小學科學繪本』では「汽船」「家」「石油」の三冊の挿絵を担当した。ほかにバーネット夫人の『秘密の園』(清水暉吉譯、朝日新聞社、1941年)の挿絵もあるが、いずれも彼の才能が十全に発揮されたものとは云いがたい。
その意味で、この『わが名はアラム』での山下の仕事はおそらく彼の会心の作と呼ぶべきだろう。前年に出たアメリカの原書にはドン・フリーマン Don Freeman の闊達な挿絵が数多く収録されているのだが、清水俊二はあえてそれらを採用せず、友人の山下に装幀と挿絵のすべてを新たに託したのである。アメリカ西部の田舎の鄙びた風土や生活感まで漂わせた山下の挿絵は、主人公の服装のほかはフリーマンの挿絵にほとんど負うところのない独創的な画業であり、その水際立った出来映えの故にこそ、清水は異例にも「清水俊二譯・山下謙一繪」と、表紙に両者の名を対等に明記したのだろう。
同書の「あとがき」の末尾に、清水はこう記す。
この譯業はことしの春からとりかかつて、盛夏の候になつて、やうやく譯了のはこびになつた。サロイヤンの文章のニュアンスをうつすために、すくなからぬ苦心をしたつもりである。もともと、おとなの童話といつたやうな讀みものなので、六興出版部の大門一男君の提案で、山下謙一君に畫を描いていただくことになつたが、譯筆のはこびのたりないところは、山下君の畫にすくなからず救はれてゐるものと思ふ。いま、その山下君も大門君も、ともに銃をとつて、戰線に立つてゐる。表紙の畫は、山下君がお召しをうけて壯途にたつ、その前日の晩にできあがつたものだ。ここにあとがきの筆を擱くにあたつて、はるかに兩君の武運をいのりたいと思ふ。
およそサローヤンののんびり長閑な作品群には不似合いな、悲愴感の漂う文章だが、清水にはおそらく予感があったのだろう。応召した山下謙一は二度と彩管を揮うことなく、二年後の1943(昭和十八)年4月28日、報道班員としてインドネシアのセレベス島へ派遣される途上、フィリピンのパナイ島で遭難戦死を遂げた。享年三十四。『わが名はアラム』は文字どおり彼の絶筆となったのである。
開戦前夜という最悪のタイミングで世に出た『わが名はアラム』が同時代に広く読まれた形跡はない。清水は「書店の店頭にはおそらく一週間とはおかれてなかったろう」と自叙伝のなかで慨嘆する。
宣戦布告後、英米の小説類が直ちに発禁になったわけでなく、児童書に関してはその後も散発的に新刊が出ている(この問題については前にも少し書いたことがある。
→「デブと針金」を再読してみた)から、清水のいう「一週間」にはやや誇張があろうが、それにしても、単にアメリカ小説だというだけでなく、あまりに平穏で緩やかな本書の内容が当時の好戦的な気分とかけ離れていたのは間違いない。おそらく読者に届いたのはごく少部数だろう。その証拠に、今やマックカラーズの『話しかける彼等』以上に稀覯書となっており、探し出すのはきわめて困難。小生も二十年以上かけて巡り逢えたのは架蔵するこの一冊のみである。
そして戦後。空前の海外文学翻訳ブームの波に乗って、『わが名はアラム』清水訳は1951年に月曜書房から晴れて復刊を遂げる。ところが諸般の事情からか、山下謙一の装幀と挿絵は採用されなかった。
この事態に清水俊二が心穏やかでいられたとはとても考えられない。強面のサングラスの背後に繊細な魂を隠し持つハードボイルドな明治男は、自分の訳文だけが戦後を生き延びることを潔しとせず、かかる不本意な復刊には忸怩たる思いだったかと想像する。それでは山下の霊が浮かばれないだろう、と。
それから更に三十年近い歳月が流れた。1970年代に晶文社から清新なセレクションによる海外文学選集「文学のおくりもの」シリーズが刊行されたとき、往時に手がけた旧訳の復刊を持ちかけられた清水俊二は、ウルフ・マンコウィッツの『文なし横丁の人々』とともに、ウィリアム・サロイヤンの『わが名はアラム』を候補作として挙げた。最初の翻訳から実に四十年もの歳月が流れていた。
清水はこの機会を逃さず、『わが名はアラム』復刊について晶文社に条件を出したとおぼしい。六興出版部版に用いた山下謙一の挿絵を収録することである。晶文社版(1980年
→書影)の訳者あとがきに、彼は万感の思いを忍ばせた。
[・・・] 「わが名はアラム」の六興出版社版の初版は一九四一年十一月十五日の発行です。私はサロイヤンの幼な友達である日系二世の女性を通じて、サロイヤン自身から飜訳許可をもらっていたので、できあがった訳書をさっそくサロイヤンに送ったところ、本を積んだ日本郵船浅間丸が太平洋のまん中でUターンして引き返してきて、訳書は残念ながらサロイヤンの手に届きませんでした。
「わが名はアラム」の訳書は六興版のほか終戦直後の月曜書房版があり、晶文社版は三回目です。こんどは六興版のときに話題になった山下謙一君の挿画がそのまま使われるので、「わが名はアラム」の内容にふさわしい楽しい本ができあがりそうです。山下君は当時、子どものための出版物の挿画で売り出していた新進画家で、「わが名はアラム」の仕事を最後に応召、南の海で戦死しました。親しい仲間でもあった山下君の画をまた大ぜいの読者に見ていただけるのは訳者として大きな喜びです。
(追記/2016年4月18日)
念のため、1951年に出た月曜書房版の『わが名はアラム』も入手してみた。訳文は1941年の六興出版部版とほぼ同一(仮名遣いを変更)であるが、山下謙一による装幀・挿絵はすべて省かれ、代わりに原書のドン・フリーマンの挿絵(モノクロの素描)が各章の冒頭に配されている。この時期の出版物の例に漏れず、紙質も印刷も粗悪なもの。因みに、表紙と扉に掲げられた装画(アラム少年が白馬から振り落とされる場面)も、原書の表紙絵(
→これ)を踏襲している。
本書の刊行日(1951年3月3日)はサンフランシスコ講和条約の調印(同年9月8日)以前であり、洋書の邦訳・刊行には占領軍の許可が不可欠だった。本書の扉裏には "Originally copyrighted by William Saroyan in U. S. A." と明示されており、当時の通例だったエージェント(著作権代理業)の仲介を経ずに、作者からじかに承諾を受けての刊行だろうと推察される。その際に、清水俊二と月曜書房は、原書と同じ挿絵を使用するよう指示されたのかもしれない。