いやはや二月ももうあと数分で終わってしまう。閏年とはいえ、二十九日があっという間に飛び過ぎる感じだ。なのに嵐山光三郎『漂流怪人・きだみのる』の読書レヴューもまだ書き終えていない体たらく。明日からは数日間、単行本の校閲作業が入っているので、感想文を仕上げるのはもう少し後になりそうだ。
如月のつごもりに聴くべく取り出した新着ディスクはストラヴィンスキー。
"Stravinsky/Ramuz: La Historia del Soldado"
ストラヴィンスキー:
兵士の物語 (スペイン語訳/ノエミ・ブリックマン)
声の出演/
兵士=アリ・ブリックマン
悪魔=アルトゥーロ・レイエス
語り手=マヌエル・ポンセリス
演奏/
アンサンブル・ディアボルス
ヴァイオリン=ノエミ・ブリックマン
コントラバス=バレリア・ティエリー
クラリネット=ダニエル・ブコフスキ
ファゴット=ウィリアム・ゲンツ
トランペット=リカルド・キルガン
トロンボーン=グスターボ・ロサレス
打楽器=ガブリエラ・ヒメネス2003年4月29、30日、メキシコ市、メキシコ国立自治大学(UNAM)
ネサウアルコジョトル会堂(Sala Nezahualcóyotl)
Urtext JBCC 080 (2003)
→アルバム・カヴァーなにしろ鍾愛の《兵士の物語》である。高校生の時分に夢中で聴き入ったコクトー=マルケヴィッチ盤から数えて、一体これまでに何種類のディスクを耳にしたことだろう。言語も仏語、英語、独語、伊語、日本語、変わり種ではハンガリー語版なる珍品CDも架蔵する(
→「"A katona története" を聴く」)。
ヒスパニック圏ではごく当たり前なのだろうが、小生がスペイン語で《兵士の物語》を聴くのはこれが初めてである(まあ当然か)。メキシコで用いられる言葉が本家スペイン語と発音がどう違うのか、それも詳らかにしない。例えば冒頭の兵士の科白はこんな風だ。
De Aztlan a Coatepec,
Un soldado en camino va.
Quince días de permiso tiene,
Marcha hace mucho ya.
Ha marchado, marcha hace mucho ya.
Impaciente por llegar,
porque ha marchado mucho ya.
同じラテン語族だから仏語や伊語からの類推でなどうにかこうにか判る。大元のシャルル=フェルディナン・ラミュのテクストはこうだ。
Entre Denges et Denezy,
un soldat rentre chez lui.
Quinze jours de congé qu'il a,
Marche depuis longtemps déjà.
A marché, a beaucoup marché.
S’impatiente d’arriver,
Parce qu’il a beaucoup marché.
ご覧のとおり、よく似ている。一行目に出る地名がメキシコ風に「アストラン」と「コアテペク」に変えてあるのは、他の言語版でも同じ流儀である。それ以外は元のラミュの科白をよく踏まえて訳したものと察しられる。
まあ、言葉が皆目わからずとも問題ない。これほど熟知した物語なのだから、ヒンディー語だろうがスワヒリ語だろうがお構いなし。蜷川のシェイクスピアが世界中で受容されるのと同じ道理だろう。しかもこのディスク、演奏も演技もなかなか堂に入って達者なのである。
メキシコの芸達者な俳優たちが丁々発止、兵士と悪魔の息詰まる駆け引きを演じているのを耳にすると、なんだかルイス・ブニュエルの映画を観ているようで、思わず知らず引きこまれ聴き入ってしまう。これは愉しいなあ。
末尾で兵士が地獄へと連れ去られるくだり、フィナーレの打楽器が喧しく奏されるのでなく、遠くへと消え入るように終わるのも面白い趣向だ。
アルバム装画がルフィノ・タマーヨ(《ヴァイオリンを持つ少年》)なのも床しい。