昨日は家人に付き添ってはるばる茨城の土浦まで出向き、家人の学生時代の旧友夫妻を訪ねて食事を御馳走になったり、あちこちの店先に飾られている雛人形を観ながら商店街を歩き廻ったりした。万歩計は一万三千歩を記録していたから、初老夫婦にしてはまあ健脚の部類だろう。
一夜明けて今日。暖かそうな陽射しに誘われるように、朝ぶらりと散策したら、近隣の河津桜がほぼ満開になって桃色に咲き誇っていた。こうなるともう春は近い。それもそのはず、もう二月も終わろうとしている。家人も小生も昨日の疲れが出たのか、膝と腰が少し痛いので早めに打ち切って帰還。午後はラヂオでも聴こう。
一昨日、たまたま近所の書店で見かけ、一も二もなくレジに持参した新刊書目。あまりの面白さに巻を措く能わず、その日のうちに読んでしまった。
嵐山光三郎
漂流怪人・きだみのる
小学館
2016年2月21日刊 →カヴァー書影2012年から15年にかけて小学館のPR誌『本の窓』に連載されたが、小生は飛び飛びに読んで、その筆致に魅せられていた。まとまって通読できる日を心待ちにしていたのである。待望の一冊と云えるだろう。
小生がきだみのるの本に出逢ったのは1977年か78年、高田馬場の月例古本市にて百円で手にした『
ドブネズミ漂流記』(1960、中央公論社
→カヴァー書影)だったと記憶する。きだが愛車ドブネズミ号を運転しながら北日本各地を訪ねて歩く紀行文集だ。気儘な旅日記にみえて随所に鋭い文明批評眼が光る。そんな思い出深い一冊なのだ。
きだはその少し前(1975)すでに歿していたが、俄然この著者に興味を掻きたてられた小生は、出世作『
氣違ひ部落周游紀行』(1948、吾妻書房)を手始めに、刊行順に列挙すると、『
モロッコ』(1951、岩波新書)、『
霧の部落』(1953、筑摩書房)、『
南氷洋』(1956、新潮社)、『
気違い部落の青春』(1957、講談社)、『
単純生活者の手記』(1963、朝日新聞社)、『
にっぽん部落』(1967、岩波新書)、『
人生逃亡者の記録』(1972、中公新書)、『
ニッポン気違い列島』(1973、平凡社)・・・と、見つけるたび手当たり次第に読み耽った。
きだの著作はどれも中古価格が安く、たいがい百円から三百円で手に入ったし、平易で鋭く明晰な文章はすらすら読めたから気楽で愉しい読書として癖になった。そのため今となっては記憶が入り混じって、どれがどれやら判別がつかないのだが。ただ一冊、突出して強烈な印象を覚えたのは、きだが珍しく自身の生い立ちを明かした自伝的エッセイ『
道徳を否む者』(1955、新潮社一時間文庫)だった。肉親から離反し不良少年として放浪していて、函館で仏人語学教師ジョゼフ・コットに見出され、親子同然の間柄となってアテネ・フランセでフランス語とギリシア語を学ぶ、という数奇な青春物語を瑞々しい筆致で描き出したものだ。
きだみのる(木田稔)こと山田吉彦はあらゆる点で破格の人物だった。アテネ・フランセで教壇に立ったあと、1934年に三十九歳で一念発起してパリ留学し、ソルボンヌで人類学と社会学を学び、文化人類学者マルセル・モースの薫陶を受けた。六年間のパリ留学の締めくくりにモロッコへ赴き、現地の風土と生活、フランスの植民地経営の実際をつぶさに観察して1939年に帰国。
見るからに錚々たる経歴だが、母国ではさしたる就学歴がなく、四十四歳の彼にアカデミックな門戸は閉ざされていた。山田は再びアテネ・フランセで語学教師を続けながら、モロッコでの見聞を詳しく綴った稀代の名著『
モロッコ紀行』(1943、日光書院)をひっそり世に問うた。ただし同書には日本の植民地経営(端的には満洲国)に資するという隠された意図があったため、戦後は永久絶版とされ、今はとびきりの稀覯書となっている(1951年に岩波新書として出た『モロッコ』は、差し障りある箇所を大幅に割愛した同書の短縮版である)。
きだみのるについて嵐山光三郎が書かねばならなかった動機は容易に察しがつく。彼は若い頃、平凡社の駆け出し編集者として本名の祐乗坊英昭
(ゆうじょうぼうひであき)を名乗っていた時分、きだの連載を雑誌『太陽』で担当し、一年間にわたって密なつきあいがあった。1970年から71年にかけてのことだ。時に嵐山青年は二十八歳、きだ翁は七十五歳だった(
→そのときの写真)。
きだは相変わらず愛車ブルーバードを操縦して旅し、各地の村社会をルポルタージュしていた。十年前の『ドブネズミ漂流記』の頃と変わらぬ暮らしぶりである。長く住んだ八王子の山奥の恩方村(ここに「気違い部落」がある)を追われ(失火を起こした故という)、同じ八王子にある劇団「新制作座」の一室に間借りしていた。ここで嵐山はきだに出逢うのだが、その有様が凄まじい(
→部屋の写真)。
おそるおそるドアを開けた。すると異臭がひとかたまりになって襲ってきた。呼吸が苦しくなり咳きこんで、逃げだしたくなった。目がチカチカした。その異臭の奥に、ねぎ、キャベツ、トマト、ニンニクが積んであった。固くなってふたつに折られたフランスパン、みかんの皮、牛乳パック、ラム酒、広辞苑、週刊新潮、フランス語の本、長靴、ゴムゾーリ。書き損じた原稿用紙、万年ぶとん、電気スタンド、トランジスタラジオなど、家庭用品と雑誌と食料が混然一体となって散らばっている。
そのゴミの上に、きだみのるは白髪の坊主刈りで入道のように坐っていた。これほど散らかし放題の部屋を、はじめて見た。野菜や、カビのはえた干物、塩辛の空きビンなどがゴミため場のようにばらまかれていた。カレーライスの皿が食いちらかしたまま、置いてあった。まさしくゴミ屋敷そのものである。きだは放浪先がお気に召すと、土地の有力者の家に長逗留を決め込むのだが、しばらくすると部屋は手のつけられぬ様相を呈する。そうなると、そろそろお引き取りを願うという成り行きだったらしい。一所不住、なんとも傍迷惑な、偏屈で身勝手な老人だったのである。
にもかかわらず、嵐山がきだ本人から受けた第一印象は実に好もしいものだった。掃き溜めに鶴とでも云うのか。彼はこう記す。
きだみのるの低くくぐもった声が聴こえた。きだみのるは生涯をかけて漂流に身をまかせた怪人である。酒飲みで、勇猛な男である。威張っていたが、その知力は緻密で不純物がない。ギリシャ語とフランス語の達人で眼光鋭く、太い背骨がまっすぐにたち、肩も胸も厚い。
(まだ書き出し)