今日は武満徹の命日、それもきっかり歿後二十年なのだと知友のツイートで教えられた。そうと知った以上は何か聴こうと、最晩年の彼が登場をことのほか壽いだ石川セリによるソング集でもかけようと棚から取り出したところでふと心変わりし、パーシー・グレインジャーのCDをターンテーブルに載せる。彼もまた今日が命日なのだ。1961年2月20日というから、亡くなってから早五十五年が過ぎ去った。
《グレインジャー早わかり/パーシー・グレインジャー管弦楽曲集》
グレインジャー:
組曲「早わかり」
■ 到着ホームでうたう鼻唄
■ 陽気な、しかし物足りなそうな
■ 田園詩
■ 「ガムサッカーズ」マーチ
トレイン・ミュージック 【エルドン・ラスバーン版】
カントリー・ガーデンズ (イングランドのモリス・ダンスの調べ)
【レオポルド・ストコフスキー版】
鐘の谷 ~ラヴェル「鏡」 【グレインジャー編】*
組曲「リンカーンシャーの花束」
■ リスボン (船乗りの歌)
■ ホークストー農園 (守銭奴とその召使い)
■ ラフォード猟園の侵入者 (密猟の歌)
■ 元気な若い船乗り
■ メルボルン卿 (戦いの歌)
■ 行方不明のお嬢さんがみつかった (踊りの歌)
パゴダ ~ドビュッシー「版画」 【グレインジャー編】
戦士たち (想像上のバレエ音楽)
サー・サイモン・ラトル指揮
バーミンガム市交響楽団1996年12月、バーミンガム、シンフォニー・ホール
1990年4月、ウォーリック大学アーツ・センター、バターワース・ホール*
東芝EMI TOCE-9476 (1997)
→アルバム・カヴァーこれまでに出た数多あるグレインジャーの管弦楽曲集のディスクのなかで、文句なしに最上位に位置する名盤である。久しぶりに耳にして、その見解を変える必要が少しもないことを再確認した。
前にも何度か採り上げたことのあるCDだが、今日ここで聴くのは東芝EMIから最初に出た盤である。間違いだらけの愚劣な解説文を目にしたくないため、国内盤を毛嫌いしている小生だが、本CDだけは例外である。優れたグレインジャー研究家である宮澤淳一さんの精確で懇切な曲目解説が読めるからだ。もうひとつ、そうなった理由は定かでないが、この日本製の初出盤だけはアルバム・カヴァーが輸入盤(
→これ)と異なっているのも蒐集家にとって見逃せないポイントである。
きっかり五年前の今日、すなわちグレインジャーの歿後五十周年の当日に、このディスクを紹介した拙レヴューがある。そこに述べた感想は今も全く同一なので、ほんの少し修辞を改めて再録しておこう。
CD時代が到来して十年。20世紀がいよいよ残り少なくなった1990年代を通して、パーシー・グレインジャーの音楽は不死鳥のように甦った。「グレインジャー・ルネサンス」とも呼ぶべきこの時期、さまざまなレーベルから彼のアルバムが陸続と世に出たものである。
その最も目覚ましい成果が1997年、英国のEMIから登場した。満を持して制作されたグレインジャーの管弦楽曲アンソロジー。しかも指揮は今を時めくサイモン・ラトル卿その人。いかにも真打登場といった按配である。
「早わかり」を聴き始めて即座に引き込まれる。なんと生き生きと表情豊かな演奏であろう。快活なリズム、光彩陸離たる色彩、随所で放射されるヴィヴィッドな生の活力。あえかに漂う情感。グレインジャー演奏に必須な要素がずべて具備された秀演というべきだ。ラトルはどこでこれほどの技を学んだのだろう。
このアルバムは選曲が実に行き届いている。代表作として知られる「早わかり」と「リンカンシャーの花束」、人口に膾炙した「カントリー・ガーデンズ」の傍らに、世界初録音の「汽車の音楽」(未完)を配し、ラヴェルとドビュッシーによる編曲物で比類のないグレインジャーの特異な志向性("tuneful percussion")を披歴したあと、最高傑作「戦士たち」で締め括る。さまざまな個性を秘めた多彩な作曲家の管弦楽曲アンソロジーとしてまことに申し分ない。
とりわけ白眉は「戦士たち」だろう。前後してドイツ・グラモフォンから出たジョン・エリオット・ガーディナー指揮による同曲の演奏をも凌駕して、文字どおり天馬が空を駆けるような疾走感と、凄まじいエネルギーの炸裂とを、ふたつながら現出させた驚異の名演奏なのである。グレインジャー本人にこれを聴かせたかった。
ともあれ、永年にわたり不当にも等閑視され続け、近代音楽史に居場所のなかったグレインジャーの芸術は、20世紀末の数年間に奇蹟的な復活を遂げた。冒頭に「不死鳥のように甦った」と書いたのは誇張ではないのである。