昼食後の腹ごなしに近隣を散歩したら陽射しが暖かい。二月に入ったからもう春なのか。公園のささやかな梅園はもう満開、紅梅はすでに盛りを過ぎかけている。明らかに例年よりも十日ほど早い。一本だけある河津桜の蕾も膨らんで、あと数日で咲き出しそうだ。
このところブーレーズやデュヴァルやニコレの追悼音楽ばかり聴いていたのも今月は止めにして、春らしく悦ばしい気分に切り替えよう。
"Ravel: L'Enfant et les sortilèges / Ma Mère l'Oye"
ラヴェル:
子供と魔法*
マ・メール・ロワ(全曲版)**
レナード・スラットキン指揮
リヨン国立管弦楽団
ブリテン合唱団、サンフォニック青少年合唱団、リヨン国立歌劇場合唱団*
子供=エレーヌ・エブラール
母、蝙蝠、中国茶碗=デルフィーヌ・ガルー
火、王女、夜鶯=アニック・マシス
ソファ、牝猫、栗鼠、羊飼=ジュリー・パステュロー
ティーポット、小柄な老人(算術)、蛙=ジャン=ポール・フーシェクール
大時計、牡猫=マルク・バラール
肘掛椅子、樹=ニコラ・クルジャル
蝙蝠、梟、羊飼女=イングリッド・ペリューシュ*2013年1月22~26日*、2011年9月**、リヨン、モーリス・ラヴェル楽堂
Naxos 8.660336 (2015)
→アルバム・カヴァー架蔵する《子供と魔法》のこれが十六枚目のディスク。このあと小澤征爾が松本で振った実況盤(未架蔵)があるから、管見の限りではLP・CDを通して実に十七種の演奏が聴き較べられる(
→「子供と魔法」ディスコグラフィ)。小生がこの童話オペラに出逢った1970年前後にはアンセルメ盤とロリン・マゼル盤のLP二枚しか聴けなかったのとは大違い、まさしく隔世の感がある。
当盤の指揮者レナード・スラットキン Leonard Slatkin はなんだか影の薄いマエストロだ。セントルイス管弦楽団、ナショナル交響楽団(ワシントン)、BBC交響楽団、デトロイト交響楽団のシェフを歴任した錚々たるキャリアに比して、これという代表的なディスクに恵まれず、米英仏露を閲する広範なレパートリーが却って器用貧乏の印象すら醸す。BBC在任期はプロムズの「ラスト・ナイト」を任されたが、折悪しく2001年の「9・11」にかちあって、米人である彼が悄然たる面持ちでタクトを振る姿が忘れられない。とかく不運がついて廻る御仁なのだ。
とはいえ決して通り一遍の凡庸な指揮者ではなく、彼がセントルイスやワシントンの楽団を振ったプロコフィエフ(「第五」「シンデレラ」「第六」)は傾聴すべき録音だったし、フランス国立管弦楽団に客演したデュカの交響曲での秀演ぶりも記憶に残る。2011年からリヨン国立管弦楽団の音楽監督の任にあり、Naxosレーベルにラヴェルの管弦楽全集の新録音を継続中とのこと。ただし不勉強な小生は全く聴いていない。《子供と魔法》もその一環として出たものだ。
スラットキンは本ディスクのライナーノーツで概略こう記している。
モーリス・ラヴェルの二つのオペラは私の音楽遍歴でひときわ格別な位置を占めている。それらは私が最初に手に入れたレコードのなかに含まれていて、どちらの作品も一刻も途切れぬ美しさで私を夢中にさせた。とりわけ《子供と魔法》は私にとって、舞台用に書かれた作品が耳で聴いただけでどれほど手に取るようにわかるか、まさにその手本というべきものだった。ラヴェルが何を成し遂げたか理解するには、物語を知っておく必要すらないほどだ。[後略]
ハリウッドの名指揮者フェリックス・スラットキンの御曹司だったレナード少年は申し分ない音楽的環境に恵まれていたが、その彼の「最初に手に入れたレコード」のなかにラヴェルの《スペインの時》と《子供の魔法》が含まれていたというのは嬉しい驚きだ。彼は1944年生まれだから、ティーンエイジの時分、恐らくアンセルメかクリュイタンスのLPを擦り切れるほど聴いたのであろう。それならば1952年生まれの小生とそんなに違わない聴取体験である。三つ子の魂、百までの譬えどおり、永い年月を経てこの新録音は為されるべくして為されたのだ。
して、その首尾や如何に?
さすがである。永年ラヴェルのオペラを身近に感じてきた人ならではの愛着と洞察が漲る演奏だ。スラットキンが実際に歌劇場で《子供と魔法》を振ったことがあるかはともかくとして、これほど細部まで理解の行き届いた解釈は滅多にあるものでない。「ラヴェルが何を成し遂げたか」を如実に覗わせる名演である。
スラットキンがリヨンの楽団から引き出した繊細で肌理細かな音色にも惚れ惚れするが、フランス人歌手たちの歌唱もそれぞれ役になりきって秀逸、ミスキャストは一人もいない。それもそのはず、「火、王女、夜鶯」に扮するアニック・マシスは少し前にラトル盤で同じ役を唄った人だし、「ティーポット、算術、蛙」役のフーシェクールに至っては、ラトル盤でも小澤征爾の松本実況盤でもこれらの役柄に扮した芸達者な名人上手。軽妙に余裕綽々と唄うのは蓋し当然か。
これはおそらく現今のフランスで望みうる最上の《子供と魔法》だろう。実際に聴き較べたわけでないが、往時のアンセルメ盤やプレヴィン盤(新盤)と優に肩を並べ、マゼル指揮による不滅の名盤に肉薄する高度な達成かもしれない。
不思議なことにフランスのオーケストラによる同曲の録音は尠く、世界初録音のエルネスト・ブール盤(1947)を別格として、これまでロリン・マゼル盤(1960)、アラン・ロンバール盤(1992)しか存在しない。その意味からも、当スラットキン=リヨン盤は値千金だろう。セルジュ・ボドやエマニュエル・クリヴィーヌらの薫陶を受けたリヨン国立管弦楽団にとっても、これは胸を張って世界に誇れる成果である。収録場所が「モーリス・ラヴェル・オーディトリオム」というのも何かの縁だろう。