もう大概の訃報には驚かない。小生だってかなり年配なのだから、若き日に憧れたり影響を蒙ったりした諸先輩が身罷るのは、これはもう世の習いなのだと諦めている。でもソプラノ歌手
ドニーズ・デュヴァルが亡くなったと聞くと、やはり胸がずきりと痛む。享年九十四は大往生に違いないのだが。
→"Gramophone" 誌の訃報ドニーズ・デュヴァルはプーランクを魅了し、幾多の傑作を書かせたミューズだった。彼は彼女にオペラ《ティレジアスの乳房
Les mamelles de Tirésias》初演で主役テレーズを、二作目のオペラ《カルメル会修道女の対話
Dialogues des Carmélites》フランス初演では修道女ブランシュをそれぞれ歌わせ、三つ目のオペラ《人間の声
La voix humaine》は文字どおり彼女の一人舞台として書かれた。そのあともドニーズのためフランシスは歌曲集「当たり籤
La courte paille」を書き、殆ど最後の作品である管弦楽伴奏の歌曲「モンテカルロの女」を書いた。
二年ほど前に書いた旧文から少しだけ引こう。
デュヴァルと作曲家との運命的な遭遇は1947年オペラ=コミック座でのオペラ《ティレジアスの乳房》世界初演に端を発する。この両性具有の主人公テレーズ=ティレジアスを喜々として易々と、荒唐無稽な可笑しさと瀟洒なコケットリーを発散する天性のコメディエンヌに、プーランクはぞっこん惚れ込んだのだ。
次のオペラは一転して深刻な宗教劇《カルメル会修道女の対話》。プーランクは最も重要な尼僧ブランシュ役を初めからデュヴァルの声と佇まいを念頭に作曲したし、難渋した際はしばしば彼女の判断すら仰いだそうな。そして三作目にして最終作《人間の声》は云うまでもなく「デュヴァルの、デュヴァルによる、デュヴァルのための」一人オペラにほかならない。幸いなことに、これら三作のオペラには決定盤の名に恥じない最初の録音が残され、いずれも主役を演ずるデュヴァルの声と演技がつぶさに記録されている。誰も彼女を凌駕できないというのが大方のプーランク愛好家の一致した意見であろう。
プーランクはしばしば彼女を演奏旅行に誘った。彼のピアノでデュヴァルが歌うリサイタルは1958年に始まり、作曲家の死の直前まで各地で開催された(1960年冬には米国ツアーも)。生粋のオペラ/オペレッタ歌手であるデュヴァルには歌曲のレパートリーは僅かしかなかったので、それを補う意味もあってプーランクは歌曲集「当たり籤」を書いたのだが、何故か理由はわからぬが彼女はこれを人前では一度も歌わなかった。
プーランクが最愛のミューズのために捧げた最後の作品、それが「モンテカルロの女 La Dame de Monte-Carlo」である。もともとジャン・コクトーがカバレット歌手マリアンヌ・オズヴァルドのために書き下ろした戦前の独白詩(「語るシャンソン」)を、新たにプーランクが管弦楽伴奏つき歌曲に仕立て上げたものだ。ほんの八分足らずの小品だが、生に疲れ果て、追い詰められた女の自棄と諦念を鮮やかに浮き彫りにしたモノローグ。これはプーランクが《人間の声》に続いてコクトー作品に附曲した音楽であり、内容的にもその続篇と看做しうる(「人間の声」で絶望の淵に沈んだ女は、死を決意してモンテカルロに流れ着く・・・)。
プーランクに異性愛の感情は沸かなかったかもしれないが、それでも目の前に出現したこの蠱惑的なコケットリーを振り撒く小娘は作曲家のなかで恋愛に似た物狂おしい情動をかきたてたとおぼしい。彼が彼女を見出した場所が音楽学校でも歌劇場でもなく、パリのミュージック・ホール「フォリー・ベルジェール」の舞台だった、という逸話はいかにもドニーズにふさわしい。彼女はキャリアの初めから「唄って踊って芝居ができる」天性の演技者だったのである。
1965年、まだ四十代の前半で声帯を痛め、あっさり引退してしまったドニーズ・デュヴァルには残された録音がごく僅かしかない。ましてその演技姿を動く映像で観ることは叶わぬ夢だと端から諦めていた。
ところがごく近年になって、彼女が最大の当たり狂言たる一人オペラ《人間の声》を唄い演じるカラー映像(TV用にスタジオで収録)がDVDで登場し、その附録として1998年に彼女が催したマスタークラス(年若い歌手に《人間の声》の奥義を伝授する内容だ!)まで目にすることができた。永くドニーズを「遠く憧れるだけ」だった小生が狂喜乱舞したのは言うまでもない。そのときの昂奮は三年前のこの記事(
→花は散らで残りしなり)の前半でつぶさに書いた。
だからもう嘆くことはすまい。彼女は充分に生きたし、残すべき遺産をきちんと後世に手渡して、穏やかな気持ちで旅立ったに違いない。そう信じることで私たちもどうにか心の平静を保つとしよう。