入手したのはいつ、どこでだったか、もう記憶が定かでないが、手許に杉浦非水(1876~1965)が自分用に拵えた年賀状が九枚ある。今それらを久しぶりに取り出し、矯めつ眇めつ眺めている。年代順に列挙してみようか。
大正三年(1914) *寅年
大正四年(1915) *卯年
大正五年(1916) *辰年
大正七年(1918) *午年
大正八年(1919) *未年
大正九年(1920) *申年/「大正庚申歳」とあり、消印から推定
大正十四年(1925) *丑年
大正十五年(1926) *寅年/「丙寅元旦」とあり、消印から推定
昭和九年(1934) *戌年/「皇紀二千五百九十四年」とある
さすが当代随一の図案家だけあって、どの年の賀状も干支に因んで凝った装画が施され、美術作品としても鑑賞に堪える。大正三年の「寅」はインドの装飾画風、大正四年の「卯」は大胆なドイツ表現派スタイル、大正七年の「午」は朴訥な民画の流儀・・・といった具合に、毎年いろいろ工夫して様式に変化をつけ、飽きさせず目を愉しませるあたり、見事にプロフェッショナルの仕事である。
こんな素敵で瀟洒な賀状を毎年のように頂戴したら、とても捨てるには忍びがたく、きちんと函にしまっておいた人が少なからずいたに違いない。この九枚がまさにそれで、宛名はどれも同じ「岡落葉」なる人物。保存状態は等し並みにきわめて良好であり、この「岡」氏はおそらく非水画伯からの年賀葉書だけを特別に扱い、失くさぬよう大切に保存したと推察される。
今ちょっと試みに調べてみたら、岡落葉(おか・らくよう)は明治十二年(1879)生まれの画家。山口の出身で、本名を岡悳介(とくすけ)といった。東京美術学校卒。国木田独歩と親しく、その代表作『武蔵野』の表紙絵を描いたほか、少年少女雑誌の口絵・挿絵をよくした、とのこと。杉浦非水より三歳年下であり、同じ東京美術学校の出というところから、おそらく互いに学生時代から面識があり、非水も若い頃は挿絵の仕事をしたから、同業者としての誼みもあったと想像される。この九枚の年賀状は両者の長きにわたる交友のなによりの証だろう。
これら賀状に記された非水の住所はずっと一貫して「東京下澁谷一八五五」、最後の一枚のみ「東京市澁谷區伊達町一七」となっているが、実のところ二つの所在地は同一であり、昭和三年(1928)の改正により住居表示が変わったものだという(渋谷区の設置は昭和七年)。現今の町名でいえば「恵比寿三丁目」に該当する由。恵比寿ガーデンプレイスの奥、マンションが軒を連ねながら今も比較的閑静な住宅街の一郭である。
こんな些事を長々と詮索したのは、今日たまたま渋谷の「白根記念渋谷区郷土博物館・文学館」で、特別展「杉浦非水・翠子展──同情
(たましい)から生まれた絵画と歌」を観てきたからだ。こんな展覧会を昨秋からやっているのを迂闊にも気づかず、昨日たまたま知人のフェイスブック記事でようやく開催を知った。今日が最終日だというので慌てて赴いた次第。危うく見逃すところだった。
初めて出向く館なので地図で目星をつけ、隣接する国学院大学を目指して歩く。渋谷駅からゆっくり二十分位だろうか。穏やかな日和の休日なので少しも苦にならない距離だ。坂を登りきったところにひっそり佇む小建物である。
展覧会は拍子抜けするほど小規模。一階正面の奥まった小部屋だけのささやかな展示である。実際これは過去に小生が観たどの非水展(たばこと塩の博物館、1994/愛媛県美術館、2000/東京国立近代美術館フィルムセンター、2000/宇都宮美術館、2009)ともまるで比較にならない小ささである。
だから本展で非水の仕事をつぶさに知ることはとても無理。生涯を作品でざっと概観することすら儘ならず、雑誌『みつこしタイムス』『大阪の三越』などが申し訳程度に並ぶばかり、あの美しい作品集『非水図按集』(大正四年)も、展示品の保存状態が悪く楽しめない。備え付け硝子ケースが狭すぎ、三越や地下鉄開通のポスターなど、現物を並べたくとも並ばない。端から回顧展の体をなさないのだ。
にもかかわらず、この展覧会には「観にきてよかった」と思える美点がある。標題にあるとおり、これは「非水・翠子」の二人展なのであり、歌人として知られる令夫人 杉浦翠子(すいこ)の仕事にも光を当てた意欲的な企てだからだ。別の硝子ケースには彼女の肉筆原稿や短冊類、さまざまな著作(その多くは非水の装幀
→『寒紅集』、
→『朝の呼吸』)が所狭しと並び、更には非水の花鳥画(多くは植物を描く)に翠子が短歌を添えた「夫婦合作」の色紙(
→これ)や軸(
→これ)が展示される(さいたま文学館蔵)。この微笑ましい夫唱婦随(むしろ婦唱夫随か)ぶりこそが本展の見どころなのである。
同世代の誰よりも欧州美術界の動向に敏感でありながら青年期に海外経験のなかった非水は、大正十一年ようやく欧州を巡る旅に出た。四十代後半の洋行は遅きに失し、しかも旅中で思いがけず関東大震災の報に接し、思いが千々に乱れる旅でもあったらしい。その間に非水が旅先から翠子に宛てた手紙や絵葉書がいくつも出品され(愛媛県美術館蔵)、旅先での昂揚感や心細さが率直に吐露されるところに、親密な夫婦関係がそこはかとなく偲ばれる展示だった。
もうひとつ別の硝子ケースでは、この館らしく渋谷にまつわる小ネタが愉しめる。昭和三十三年(1958)は戌年だったので、非水は年賀状に「ハチ公」を登場させた。渋谷在住の面目躍如といったところだが、残された「ハチ公」葉書には二種類あり(
→そのひとつ)、出来映えはまあ月並なのだが、そのための下絵スケッチまで残されていて、後年まで彼がこつこつ賀状を手作りしていた様子がうかがえて微笑ましい。これらはすべて愛媛県美術館の所蔵品らしいが、恐らく初公開だろう。因みに、ここ白根記念渋谷区郷土博物館・文学館では二年ほど前にハチ公に関する展覧会を催したことがあった由。
そんなわけで展示の規模こそ小さいながら、主催者が本展に注いだ情熱と心意気はむしろ展覧会カタログに明らかだ。そこには出品作を数倍するカラー図版が掲載され、「非水が描いた雑誌の表紙」という特集頁で実に四十四種もの表紙絵が紹介されているのも貴重だ。非水がバレエ・リュスに取材した『演芸画報』表紙絵(
→これ)もちゃんと載っているのが嬉しかった(小生が発見者なので)。カタログではこのほか、歌人としての翠子の生涯を辿る重宝な略伝が読めるし、彼女が夫を詠んだ短歌二百三十二首がすべて掲載され、上述した洋行便りや杉浦夫妻合作の色紙群についても詳しい紹介がなされるのも難有い。
これまで翠子については「アララギ派の歌人」という程度の認識しかなかった小生のような門外漢には裨益するところ大なる一冊であり、彼女が斎藤茂吉との確執の果てに「アララギ」を抜けて独立不羈の人生を歩んだ女人だと初めて知った。この資料性の高いカタログ(しかも頒価は千円だ)を丁寧に執筆・編集された同館学芸員の服部比呂美さんの労を多としたい。
非水と翠子は大正元年(1912)、上述の「下澁谷一八五五」に新居を構え、見るからにハイカラな美的生活を営んだ(
→大正五年の写真)。芸術家夫妻はここを終の棲家とし、昭和三十五年(1960)に翠子が歿するまで半世紀近くをこの家で仲睦まじく過ごしたという。この伊達町=恵比寿三丁目の旧宅がもはや現存しないのは残念だが、彼らが渋谷の地で活躍した証として結実したのが本展なのだと考えれば、展覧会をここ渋谷の一郭で観る意義がじわじわ感知されよう。
一時間ほど拝見して館を後にした。そのあとは渋谷駅に戻らず、大体の方角を定めて南青山界隈をフラヌール気分でゆるゆると裏道散策。陽射しが暖かく散歩日和だったからだ。やがて高速の架かった六本木通りにぶち当たり、それを横切って更に進むと見覚えのある骨董通りに出た。地下鉄の表参道駅から帰途に就く。