例年やっている旧友たちとの蕎麦食べ歩きツアーが何故か今年は行われないので、在宅して新年の支度。と云っても主たる仕事は近所のスーパーへの買い出しである。今年は奮発して仏蘭西料理店から特製「洋風お節盛り合わせ」なるものを取り寄せたから、買い足すのは年越し蕎麦と鶏肉、蒲鉾、伊達巻、卵焼くらいなもの。自転車で乗り付けて入店すると、いやはや大変な賑わいだ。どのコーナーにも織るような人の波、鮮魚の一郭では鮪を柵に切り分ける即売ショーが行われていて、順番を待つ長い行列ができている。人いきれを避けるように、必要な品だけを手にしたら足早にすごすご退場。老人には喧噪は不向きなのだ。
夕方たまたま点けたTVで芝居を観る。井上ひさしの《かがやく星座》、今秋の「こまつ座」公演から。小生も家人もなぜか未見の作。第二次大戦前夜の浅草での庶民の暮らしを数々の流行歌で浮き彫りにした見事なジングシュピーゲル。初演は戦後四十年目の1985年。戦後七十年の年にこれを観ると、忌まわしい「過去」というよりも、なぜか禍々しい「未来」の出来事のように思えてしまう。
さてと、今年やり残したことは何かないか。振り返ってみると、嫌な出来事ばかり続いた一年だった。思い返すのも不愉快なほどに。個人的な達成はといえば、ささやかなライフワークとして長い論考を仕上げたくらいか。つい先日、阿佐ヶ谷で手にした初山滋の覆刻絵本『山のもの 山のもの』を繙くと、最初の頁にこうある。
いぜん には
けもの が にんげん に ばけたり、
にんげん が けもの に ばけたり
した、おもしろい おはなし も
あったやうだ。
しかし、もう ばけたり ばかし
たりは やめて
にんげん は にんげん
けものは そのまま で、
ほんとう の よい こころ と
こころ で いき て いく
ことを かんがへ て みよう。
初山がこの文章を書いたのは敗戦直後の、おそらく1946年のこと。人間が人間であることを忘れて過ごした悪夢のような日々がまだ尾を引いている時分のことだ。「もう化けたり化かしたりはやめて」「人間は人間」「本当の良い心と心で生きていくことを考えてみよう」。七十年を経て再び人間が人間でなくなってしまう昨今の風潮をみるにつけ、この一節がやけに心に沁みる。
来年は少しはマシな年になりますように。良い年をお迎えくださいますよう。