或る町に二人の啞者がいつも離れず暮してゐた。每朝早く彼等は腕を組んでその住居から出かけ、表通りへと步いて行つた。此の二人の友人は見たところが全く違つてゐた。
いつも道を先立ちになつて步く一人は、肥つてぼんやりした感じのギリシヤ人で、夏は黄色か綠色のポロ襯衣を着てゐるが、前は、だらしなくズボンの中に押し込んであり、後はダラリと垂れ下がつてゐた。寒くなると、その上に不恰好な鼠色のスウエターを着る。顏は圓くて脂で光り、半分閉ぢた目と、半分開いた唇の表情に、穏かな、だが間拔けた微笑を刻みつけてゐた。
もう一人の啞者は背が高く、その目の動きに敏捷で智的な輝きを見せ、いつも清潔なきちんとした服裝をしてゐた。
毎朝の事ながら、二人は町の本通りまで無言で步いて來る。やがて、ある果物と菓子を賈る店の前まで來て、そこに足を止める。此のギリシヤ人、スピロス・アントナポウロスは、此の店の主人である彼の從兄の手助けをして働いてゐるので、キヤンデーを造つたり、果物の荷解きをしたり、店の掃除をするのがその仕事であつた。
痩せた啞者の、ジョン・シンガーは、いつもその手を友達の腕にかけてゐるが、別れる前の一時、其の眼はぢつと友の顏を見つめる。此の別れのあいさつをすますと、シンガーは道路を横切つて、彼が銀器の彫刻師として働いてゐる寶石店へと、一人步いて行く。この小説の書き出しに憶えがあるという方は少なくなかろう。だがしかし、どこか記憶のなかの文章と違っている気がする──そうお感じの向きもおられろう。
ならば、こちらではいかがだろう。
町にはふたりの啞 【おし】 がいた。ふたりはいつもいっしょだった。毎日朝早く家を出ると、腕を組んで町の通りを働きに出かけた。しかし友人同士とはいえ、まるで違ったふたりだった。舵取 【かじと】 り役は、でぶでぼんやりとしたギリシャ人だった。夏になると、彼は黄色か緑のポロシャツの前をぞんざいにズボンにたくしこみ、うしろはだらりと垂 【た】 らしたまま家から出て来た。陽気が寒くなると、その上に不格好な灰色のセーターを着こんだ。てかてか光る丸顔の男で、目をなかば閉じ、口もとは間のぬけた穏やかな微笑にゆがんでいた。相棒のほうは背が高かった。目にも機敏で聡明 【そうめい】 な表情があった。いつもきちんとして、いたって地味な身なりだった。
毎朝、ふたりの友人は押し黙ったまま、つれだって町の本通りまで歩いて行く。やがて、くだものや菓子を売るとある店の前まで来ると、ふたりはおもての歩道にちょっと立ちどまる。ギリシャ人のスピロス・アントナープロスは、このくだもの屋の持主である従兄 【いとこ】 の手伝いをしていたのだ。菓子を作ったり、くだものの箱をあけたり、店の掃除をしたりするのが彼の仕事だった。やせたほうの啞のジョン・シンガーは、相棒と別れる前、たいていきまって片手を相手の腕にかけ、ちょっと顔を見つめた。この別れがすむと、シンガーは通りを横切り、銀製品の彫刻師として働いている宝石店へ、ひとりで歩いてゆくのだ。
あゝこれだ、この書き出しならば間違いなく読んだ記憶があるという読者諸兄姉は、ほぼ確実に小生と概ね同年代、すなわち1970年代に夢多き青春時代を送った初老の方々なのだと思う。
云うまでもなくこれは翻訳小説の冒頭である。折角なので原文も掲げておこう。
In the town there were two mutes, and they were always together. Early every morning they would come out from the house where they lived and walk arm in arm down the street to work. The two friends were very different. The one who always steered the way was an obese and dreamy Greek. In the summer he would come out wearing a yellow or green polo shirt stuffed sloppily into his trousers in front and hanging loose behind. When it was colder he wore over this a shapeless grey sweater. His face was round and oily, with half-closed eyelids and lips that curved in a gentle, stupid smile. The other mute was tall. His eyes had a quick, intelligent expression. He was always immaculate and very soberly dressed.
Every morning the two friends walked silently together until they reached the main street of the town. Then when they came to a certain fruit and candy store they paused for a moment on the sidewalk outside. The Greek, Spiros Antonapoulos, worked for his cousin, who owned this fruit store. His job was to make candies and sweets, uncrate the fruits, and to keep the place clean. The thin mute, John Singer, nearly always put his hand on his friend's arm and looked for a second into his face before leaving him. Then after this good-bye Singer crossed the street and walked on alone to the jewellery store where he worked as a silverware engraver.
── Carson McCullers, The Heart is a Lonely Hunter (1940)
紹介にえらく手間取ってしまったが、冒頭に並べた訳文はこの名高い小説の新旧二種の邦語訳から、出だしの一節をそれぞれ書き写したものである。
カアスン・マックカラーズ
中川のぶ譯
話しかける彼等
四季書房
1940 (昭和十五年十二月廿八日發行) →表紙装幀
カースン・マッカラーズ
河野一郎訳
心は孤独な狩人
新潮文庫
1972 (昭和四十七年三月二十五日発行) →カヴァー装幀米国の閨秀作家カーソン・マッカラーズの最初の小説 "
The Heart is a Lonely Hunter" は1940年6月4日、ボストンのホートン・ミフリン(Houghton Mifflin)社から刊行された。それから殆ど時をおかず半年後の12月28日、早くもその邦訳が東京で刊行されている事実には誰しも目を瞠るだろう。
開戦前夜の昭和十五年、政治的・軍事的には一触即発だったにもかかわらず、米国文壇の新星のデビュー作が直ちに邦訳・紹介される。それだけの見識と余裕がわが出版界には残されていたというところか。事実、昭和十三年にミッチェルの『
風と共に去りぬ』(大久保康雄訳)が、昭和十五年にはスタインベックの『
怒りの葡萄』(新居格訳)が、昭和十六年ですらヘミングウェイの『
誰がために鐘は鳴る』(大久保康雄・相良健訳)、サロイヤンの『
わが名はアラム』(清水俊二訳)が出ているから、マッカラーズの訳書は決して例外的な出版ではなかったのだ。これらを愛読した者たちは真珠湾攻撃の報をどう聞いたろう。
さてこの本邦初訳のマッカラーズだが、冒頭に掲げたように、七十五年の歳月を経て今なお古びていないのに感心する。旧漢字旧仮名はいかにも年代物の趣だが、用いられた語彙も文体も、さして時による風化を感じさせない。"
polo shirt" を「
ポロ襯衣」と訳すところのみ、さすがに時代がかっているが。
総じて訳文そのものは素直で読みやすく、原文と照合しても忠実で丹念な仕事といえるだろう。出来映えは三十二年後の河野一郎訳(小生らが親炙した版)と較べてもさして遜色ないほどだ。ここに引いた冒頭部分からも訳文のよさは察せられよう。原文よりも改行箇所を増やしたのも、読みやすさへの配慮だろう。
中川のぶ譯とあるが、見馴れない名前である。それもそのはず、本書は彼女の唯一の翻訳書なのである。本名を
中川暢子といい、画家の中川一政の令夫人である。嫁ぐ前の旧姓は伊藤であり、伊藤道郎や伊藤熹朔の妹、千田是也(本名/伊藤圀夫)の姉にあたる。千田の回想によれば彼女は少女時代の文学好きが昂じて津田英学塾に進み、ここで英語をみっちり学んだようだ。1923年に中川一政の妻となるが、翌24年に開場した築地小劇場の同名の機関誌(千田が編集)で海外演劇文献の翻訳を手がけるなど、折にふれて訳筆を揮った。
それまで訳書のなかった彼女にどういう経緯から白羽の矢が立ちマッカラーズの新作の翻訳が委ねられたのか。今となっては詳細は不明だが、かなり急な依頼であったらしい。同書の「譯者の言葉」の末尾にはこう記されている。
初めて飜譯を發表するに當つて誠に不本意な辯解ではありますが、出版上の逃れ難い事情のため、時日に餘裕がなく僅か二ケ月の間では、原作に忠實であらうとする第一段階に止まり、仕上げに至る暇がありませんでした。その點、讀者に對し相濟まない氣持が致します。叉、此の樣な若い女性を生み育ぐくんだ、マックカラーズ嬢の系圖や環境も調べて居りますから後の機會に必ず發表するつもりで居ります。終りに、仕事中終始御鞭撻下さつた四季書房主八重樫昊氏並びに大島辰雄氏へ厚く御禮を申し上げます。
要するに訳出の時間が二か月しかなく、文章の彫琢が儘ならなかったということらしい。その割には上首尾な訳文に仕上がっており、ここまで平謝りに詫びるには及ばない気もするが、それが彼女の誠実な謙虚さの現れなのだろう。
謝辞に名前の出る
八重樫昊(ひろし)は中央公論社で『婦人公論』誌の編集長を務めたあと1940年に四季書房を興し、林語堂(Lín Yǔtáng)の小説『北京好日』の翻訳を世に問うた。この『話しかける彼等』もまた四季書房の創業初年度の刊行であるが、そこそこ好評を博したとみえ、一か月後の1941年1月には早くも第三刷が出ている由。もうひとり謝辞に名を連ねる
大島辰雄が果たして後年の翻訳家・美術批評家と同一人物か否か小生は詳らかにしない。
カーソン・マッカラーズはわが鍾愛の作家であり、全作品(といっても彼女は寡作だが)を原語版で買い揃え、たいがいの邦訳を架蔵すると自負していたが、この戦前の「心は孤独な狩人」初訳本を見つけたときは心底たまげたものだ。
あれは1977年か78年のことと記憶するのだが、当時の小生は一か月のうち一週間は友人の荒川俊児君がやっていた反公害輸出運動の事務所に通って寝泊まりするのが慣わしだった。機関誌『公害を逃すな!』のため、筆耕作業をヴォランティアで引き受けていたのだ(まだ手書き文字の時代だった)。
神田神保町で編集のアルバイトが終わると、暮れなずむ街を文京区の白山まで徒歩で移動した。時間はたっぷりあったから、道中のつれづれに春日や本郷の裏通りの風情を愉しみながら、二時間ほどかけて歩いたものだ。その日、ふと思いたって坂道(真砂坂だったか菊坂だったか)を本郷通り目指してゆるゆる上っていくと、道の左側に寂れた風情の小さな古本屋を見つけた。どんな店だろうと入るなり、書棚で埃を被ったこの『話しかける彼等』を目にしたのだ。
古色を帯びた本の背に「
カアスン・マックカラーズ」の文字を認めたときの驚きといったら! 当時の貧書生にはちょっと高価な気もしたが、なにしろ戦前の本だもの、意を決して帳場に持参した。といってもせいぜい五、六百円だったと思う。
最後に本書についてもうひとつ附言するなら、装幀者は云うまでもなく中川一政。後にも先にもこれっきり、「夫唱婦随」ならぬ「婦唱夫随」の一冊なのである。野鳥(?)と団栗をあしらった図柄は、米国の現代小説らしからぬばかりか、とても開戦前夜の出版とは思えない長閑さだ。とはいうものの、当時はすでに暗黒時代の只中であり、中川のぶの弟・千田是也は治安維持法違反で投獄中だった。