誕生日から一週間、どういうわけか柄にもなく諸事多忙の毎日が続いた。懐かしい再会に相好を崩したり、他人様の無神経な振舞に神経を尖らせたり、悲喜交々の体験がたて続いた。隠遁生活に馴染んでいるものだから、ともすれば人づきあいに疲労感を覚えてしまう。へとへとに草臥れた。
そんな次第だから、今こそ心身のリハビリテーションが必要なようだ。夜更けて心静かに聴く音楽で癒されたい。
《ジャンドロン=フォーレ/モーリス・ジャンドロン》
フォーレ:
チェロ・ソナタ 第一番 作品109*
悲歌 作品24
夢のあとに (パブロ・カザルス編)
夜想曲 ~組曲「シャイロック」作品57 (バスタール&ジャンドロン編)
シチリア舞曲 作品78
無言歌 作品17-3 (ジュール・デルサール編)
子守唄 作品16
田園曲 ~組曲「マスクとベルガマスク」作品112 (ルイ・フルニエ編)
ラヴェル:
ガブリエル・フォーレの名による子守唄
チェロ/モーリス・ジャンドロン
ピアノ/岩崎 淑1972年11月13日、東京、国際基督教大学教会
1972年11月14日、埼玉、川口市民会館*
カメラータ・トウキョウ CMCD 20204 (1973/2013)
→アルバム・カヴァーこのアルバムがLPで出たとき、ジャケット写真に吃驚仰天したのをよく憶えている。なにしろ「チェロの貴公子」の異名をとったモーリス・ジャンドロンである。私たちの見慣れたポルトレ(例えば
→これ)と余りにもかけ離れた髭面に、「これが本当にジャンドロンなのか!?」と目を丸くしたものだ。
こういうとき三十センチ四方あるLPの正方形のインパクトは絶大である。あれから四十年以上になるのに、渋い表情を浮かべた髭もじゃのジャンドロンの面構えは記憶になお鮮明だ。だからこそ先日このCDを新宿の中古店で見つけたとき、旧知の友人と数十年ぶりに再会したような心持になった。
ジャンドロンはレコード録音に恵まれなかった。ディスコグラフィは思いのほか貧弱だし、協奏曲では気心の知れた指揮者と共演できなかった。同じフランスのフルニエやトルトリエと較べて、時の試練に耐えうる名盤が少ないのだ。
そんな彼にとって、この「ジャンドロン=フォーレ」と題された一枚を後世に残せたのは幸いだった。しかもそれが旅先の日本で、ひとりの日本人プロデューサーの熱意と発案から生まれたのだから、私たちはこのアルバムを大いに誇りとしていい。当時、日本ビクターに在籍した井阪紘さんはジャンドロンが何故かフォーレの第一ソナタを録音していない事実に気づき、1972年秋に彼が二度目の来日を果たした機会を捉えて、このフォーレ・アルバムを収録したのだという。
余白にフォーレのチェロ用小品、それも人口に膾炙した「エレジー」や「シシリエンヌ」ばかりでなく、「ノクチュルヌ」や「パストラル」のような人知れぬ可憐な佳曲も含め、更にはラヴェルのオマージュ作品まで収めるという妙案は、ジャンドロン自身の着想なのだという。フォーレ音楽の精華ともいうべき名盤は、国境を越えたプロデューサーとチェリストとの意気投合から生まれたのだ。
聴く者すべてを恍惚境に誘う見事な演奏だが、その陰では大変な苦労があったことを井阪さん自身ライナーノーツで明かしている。来日時にジャンドロンは体調を崩し、腎臓結石の痛みを注射で抑えながら録音を敢行したのだという。聴こえてくる音にはそんな苦衷の痕は微塵も看取されないのは、流石プロフェッショナルの仕事だと感嘆するほかない。井阪さんの回想から引く。
帰国後、入院して手術を受け、退院してフォンテンブローの自宅で静養中、そこに私がお見舞いに訪れたという訳。その際写した写真が、このアルバムの表紙となった。
本人は、この写真がいたくお気に入りで、75年の来日の際に、当時読売新聞の記者だった、木村英二氏にこう語っている。
「退院後はツキを変えるためにヒゲを生やした。あの写真を見たら、ジャンドロンの息子かなと思うだろう」と上機嫌だった。そして「いま元気だと言ったけど、元気だと言ったときは、木に触らなくちゃいけない」という。その時おぼえたのだが、英語で "touch wood" を引くと、自慢などしたあとで、復讐の女神 Nemesis のタタリを避けるため、身近にある木製品に手を触れること、とある。迷信にこだわり、ゲンをかつぐところに、ジャンドロンの意外に気弱な一面が垣間見える面白いエピソードである。この髭面のアルバム・カヴァーの背後にそんな裏話があるとは知らなかった。
思うに、健康を取り戻したジャンドロンがまず触るべき身近な木製品といえば、愛器ストラディヴァリを措いてほかになかったのではあるまいか?