でもこれだけは書いておきたい。九月が終わらないうちに。もう遙か彼方に遠ざかってしまったかのような夏をしみじみ追憶しながら。まずはこの心洗われるようなヴィデオ・クリップをご覧いただこうか(
→これ)。
英国で活躍する新進ヴァイオリニスト小町碧さんが九月初めにアップされた映像である。ここで奏されるのは小町さんがこよなく愛し、また研究対象にもしているディーリアス、それも彼女がヴァイオリンとピアノ用に編曲した "To Be Sung of a Summer Night on the Water"──三浦淳史さんによる風雅な邦題は「夏の夜、水の上にて歌える」、小町さんの呼称は「ある夏の夕暮れに」──である。
もともとは無歌詞の無伴奏合唱曲として書かれた。三浦さんがかつて書かれた二種類のライナーノーツから引いておこう。
《夏の夜、水の上にて歌える》は1917年ディーリアス55歳の作であるが、その原題の To be sung of a summer night on the water は、イギリス人にとっても破格な用法だとみえ、この曲を初演したオリアーナ・マドリガル協会の創設=指揮者チャールズ・ケネディ・スコット(1876-1965)へ宛てた返信でディーリアスは次のように抗弁している。[1917年8月8日グレ発]
「題を To be sung on Summer night on the Water とすべきだとおっしゃるのですか? 何ということをいわれるんです? なぜ 'of' がいけないんです? 第1曲は当然 'Ah' で歌うべきで、第2曲ではテノール・ソロは当然 'La' で歌ってほしい・・・」〔DELIUS by Peter Warlock. 1932〕
訳名はこの解説者のかなり自由な意訳であるが、'To be sung...' の前にTwo songs をおぎなってみると、「よく夏の夜などに水の上で歌われるべき2つの歌」の意である。素朴なパートソングに夏の夜のアトモスフェアと抒情が美しくたたえられており、第1曲はロワン河上の静かな夏の夜を、第2曲は若き日に放浪したフロリダはセント・ジョン河の夏の夜を、ノスタルジーをこめてうたったのであろう。
半生をパリ近郊のグレー・シュル・ロワンの村で隠遁生活を送ったディーリアスは、庭園を流れている河で夏の夜の舟遊びを愉しんだ。そのような夜のために、彼は無歌詞無伴奏の合唱曲《水の上で夏の夜にうたうための二つの歌》(1917)を書いた。これを、失明した晩年のディーリアスの手となり眼となって作曲を助けたエリック・フェンビー(1906-)が弦楽合奏用に編曲して《二つのアクアレル(水彩画)》という美しい題をつけたもの。第1曲では、第1と第2のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロはそれぞれ分割され、ダブル・ベースは終りの6小節だけ参加する。かぼそく美しい旋律が、やわらかく変わってゆく和声のなかに、微光を放ちながらとけこみ、夏の夜のしずかな情景をよびさます。[後略]このたび小町碧さんが英国で収録したミュージック・ヴィデオは、この二曲からなる "To Be Sung of a Summer Night on the Water" のうち第一曲「レント・マ・ノン・トロッポ」のみをヴァイオリンとピアノ用にアレンジした新版で、編曲は彼女自身が手がけている。小生の知る限り、同曲をヴァイオリン用に仕立てた例はかつてなく、その意味で珍重に値するばかりか、随所で重音奏法を用いることで、元の合唱曲(およびフェンビー版の弦楽合奏曲)の醸す精妙なハーモニーをヴァイオリン・パートへ巧みに移している。終わり近く(ヴィデオの02:05あたり)、高音からたゆたうように下降する詠嘆調の音型は原曲にないものだが、それすらディーリアスらしい半音階の揺らめきを彷彿とさせて秀逸だ。
ここで抑制のきいた端正なピアノ伴奏を聴かせるのは俊英サイモン・キャラハン。小町さんのデビュー・アルバム(
→これ)でも、見事に息の合った共演を披露していた。わずか二分半ほどの小品ながら、これほどディーリアスの神髄を捉えた二重奏は滅多に聴けるものではない。もう四十五年になる手練れのディーリアン(ディーリアス愛好家)の小生が自信をもってそう推奨できる演奏だ。
映し出される英国風景がまた息を呑むほどに美しい。ロケ地はベンジャミン・ブリテンが終の棲家としたサフォーク州オールドバラ Aldeburgh 周辺の田園地帯。季節は初夏だろうか。清楚な白衣をまとった小町さんが川沿いの小径を歩いて海辺に出る、という一連のシークエンスに、ご両人による実演場面が挿入される。シンプルな映像作品ながら、嫌みのない清冽な演出に見惚れてしまう。製作はサウンド・エンジニアのオスカー・トレス Oscar Torres という人。
最後のクレジットから判ったのだが、この実演場面(と録音)の収録がなされたのは、オールドバラ近郊のスネイプ・モールティングズ Snape Maltings のコンサート・ホール。云うまでもなくオールドバラ音楽祭の本拠地であり、生前のブリテンが幾多の名レコーディングを残した「聖地」である。
と、そこまで知らされて、小生は思わずおゝと声をあげそうになる。そうであった、小生が遠い昔、ディーリアスのこの曲(正確にはその弦楽合奏版「二つの水彩画」)を初めて聴いたのは、ほかでもない、そのブリテンが指揮した「弦楽合奏によるイギリス音楽」というLPアルバム(日本盤も1969年に出た)を通してだったのだ。その演奏は今もCD再発盤として手許にある。
"The British Collection/ Music for Strings: Elgar - Delius - Bridge - Britten"
パーセル(ブリテン編): シャコンヌ ト短調
エルガー: 序奏とアレグロ
ブリテン: 前奏曲とフーガ 作品29*
ブリテン: 単純交響曲
ディーリアス(フェンビー編): 二つの水彩画
ブリッジ: ロジャー・デ・カヴァリー卿
ベンジャミン・ブリテン指揮
イギリス室内管弦楽団1968年12月、1971年9月*、ザ・モールティング、スネイプ
Decca London 425 160-2 (1989)
→アルバム・カヴァー*オリジナルLPは「*」印の一曲を除いた全五作品を収録。
四十七年の時を隔てて、スネイプ・モールティングの録音セッションで、同じディーリアスの可憐な小品が再び収録されるという巡り合わせの不思議さに、天の配剤の妙を思わずにいられない。このブリテン指揮による「二つの水彩画」、他のアルバム収録曲すべてにもあてはまるのだが、尽きせぬ愛情の滲み出た掬すべき名演である。因みに、ブリテンが残したディーリアスの公式録音はこれだけである。このほか、歿後に出たBBC収録の実況音源に小品がひとつ残る。
"Britten: The Collection -- Bonus CD"
ディーリアス:
川面の夏の夜 Summer Night on the River
ベンジャミン・ブリテン指揮
イギリス室内管弦楽団1967年6月4日、ザ・モールティング、スネイプ(実況)
BBC Music BBCB 8016-2 (2000)