つい最近になってマデリン・ペルーの来日公演があることに気づいた。普段ジャズを熱心に聴かない小生がこの歌手の存在を知ったのはほんの偶然からだ。八年ほど前、吉祥寺でたまたま入った喫茶店で素敵な女性ヴォーカルが流れていて、即座にひどく心惹かれた。それがマデリンのデビュー・アルバムだったのだ(
→本物の珈琲屋で聴いたマデリン・ペルー)。四年前にピーター・バラカンの著書『ラジオのこちら側で』を読んだら、彼女の唄う「ドント・ウェイト・トゥー・ロング」が「2000~2009年の10曲」に挙げられているのを目にして、「バラカンさんも彼女を高く買っている」と大いに意を強くした(
→音楽を紹介する司書が必要だ)。彼がDJを務める番組でもマデリンの歌が時折かかって小生を悦ばせたものだ。
来日公演は三夜連続(一晩に二度)。会場は南青山の「ブルーノート東京」だという。小生にはひどく敷居の高い場所だが、怖気づいてはいられない。この機会を逃したら今後いつまた彼女を生で聴けるか覚束ないからだ。思い切って奮発し、先週末に自由席を予約しておいた。
昼下がり少し早目に家を出て、同じ南青山にある馴染の古本屋「古書日月堂」で半時間ほど油を売ってから徒歩で目的地を目指す。ここから会場まではほんの数分。指呼の距離にある。到着するとほどなく五時半になり開場。左側の前方の良席を確保し、麦酒とツマミとサラダを註文して空腹を凌ぐ。これだけで数千円とは恐れ入るが、味はさすがに上等だ。
定刻の七時きっかりに客電が落とされ、奏者たちがすぐ後ろの通路を通って足早に登場。彼女とギタリスト、ベーシストの三人だけという至ってシンプルな編成だ。マデリン嬢はアルバム写真で見知った姿よりも遙かにふくよか。ちょっと別人の趣だが、よく見ると面だちは紛れもなく彼女だ。微笑むと特にそう。
Blue Note Tokyo
19:00-
Madeleine Peyroux Trio
Madeleine Peyroux (vocal, acoustic guitar, mini-guitar)
Jon Herington (electric guitar)
Barak Mori (wood bass)
01. Take These Chains
02. Between the Bars
03. Tango Till They're Sore
04. Guilty
05. Getting Some Fun Out of Life
06. Half of the Perfect World
07. Don't Wait Too Long
08. La Javanaise
09. Easy Come, Easy Go Blues
10. J'ai deux amours
11. If the Sea Was Whisky
12. More Time
13. Dance Me to the End of Love
14. Keep Me in Your Heart for a While
encore 1. Careless Love
encore 2. This Is Heaven to Me薄暗がりのなかで走り書きしたので誤りがあるかもしれないが曲順は大略このとおり。さしてマデリンに詳しくない小生のような者にも馴染の曲が目白押しなのが嬉しい。愛聴してきたセカンド・アルバム "Careless Love" (2004) から標題曲など七曲も唄われた(02, 07, 10, 13, 14, アンコール二曲)。
当然のことながらアレンジは随分と異なり、彼女の歌唱そのものも持ち歌を繰り返し唄いこむうち、かなり様相を変えていったと想像されるが、それでもマデリン特有の懐かしい声質、語りかけるような調子、すぐそれとわかる唄い癖は変わっていない。ディスクでのためらいがちに呟くような初発性はやや後退し、余裕と説得力が増したのは、二十年近い彼女のキャリアの然らしめるところだろう。
通常はジャズの範疇に入るのだろうが、マデリンの歌唱は今どきのジャズ歌手の誰とも似ておらず、むしろ遠い昔のベシー・スミスやビリー・ホリデイのような古風な歌い回しが基調にあるようだ。今日の演目でも05, 09, encore 1 はまさにこれら先人たちの持ち歌だし、ジョゼフィン・ベイカー最大のヒット曲だった10もその系列に入るだろう(おしまいのところで歌詞のParisをTokioに変えて唄ったのは、まあご愛嬌だろう)。
それらの懐かしい歌の合間に、トム・ウェイツの03、ランディ・ニューマンの04、ウィリー・ディクソンの11のような新旧取り混ぜた「酔いどれ唄」の数々が加わると、現今の彼女のレパートリーがほぼ出来上がる。途中の語りで「
私の歌って、たいがいブルーズ・ソングか、ラヴ・ソングか、ドリンキング・ソングだわね」と冗談めかして彼女自身が述懐するとおりだ。
それらの歌を今のマデリンは実にさりげなく、無理なく確実に自家薬籠中のものにして、余裕たっぷり披露する。CDで聴いた若い頃のノンシャラントな語り口に加えて、歌に陰影が深まったようだ。歌手として円熟期に入ったのだろう。ジャズともブルーズともつかぬ独自のソング、口ずさまれる極上の「小唄」なのだ、と思う。
バックを支えるギターとウッドベースはどちらも練達の腕利きたちだ。ピアノもドラムズも抜き、たった三人のステージなのに不足はなく、マデリンとの呼吸も宜しい。要所要所で絶妙な合いの手や達者なソロも聴かせるものの、総じて堅実で控えめなプレイに終始。マデリンの歌唱を引き立てるには最小限の音で充分なのだ、といわんばかりに。因みに08, 09, 10の三曲は完全に彼女のソロ。
"Don't Wait Too Long" や "Careless Love"、レナード・コーエンの詞が意味深長な "Dance Me to the End of Love" などお馴染の歌も、ウォーレン・ジヴォン作の "Keep Me in Your Heart for a While" のような初体験の歌も、等し並みにじわりと胸に沁みた。
終わってしまうと、あっという間の一時間十五分だった。些か呆気ないほどで、正直なところ、もう少し彼女の歌に浸っていたい気分だが、これから第二ステージが控えているので、このあたりが潮時なのだろう。
客電が点いて周囲を見渡すと、すぐ近くにピーター・バラカン氏が坐っておられたのには吃驚。隣りの上品な女性は奥様だろうか。思わず「
リスナーです。バラカンさんのお蔭でマデリンを知ることができました。ありがとうございました」と挨拶してしまった。藪から棒に話しかけて失礼しました。