前項に引き続きフランス近代音楽、それもとびきりの秘曲を含む珍しいアルバムを引っ張り出した。三曲とも滅多に耳にする機会がないが、とりわけ冒頭の曲は小生も初めて聴く。それどころか作曲家の名からして寡聞にして初耳なのだ。
"René Herbin / Florent Schmitt"
ルネ・エルバン:
ピアノ四重奏曲 第一番 (1949)
フローラン・シュミット:
伝説曲 (1918/ヴァイオリンとピアノのための版)
ピアノ四重奏曲「偶然 Les Hasards」(1939)
ピアノ/エリザベト・エルバン
ヴァイオリン/アレクシス・ガルペリーヌ
ヴィオラ/ブリュノ・パスキエ
チェロ/マルク・ドロビンスキー1990年2月20日、パリ、ラディオ・フランス大ホール(実況)
Gallo CD 711 (1993)
→アルバム・カヴァールネ・エルバン(1911~1953)の名前を記憶している者がこの国に果たして何人いるだろうか。ピアニストにして作曲家。戦前(1937)演奏旅行で日本を訪れたことがあり、戦後(1953)再来日のために搭乗した旅客機がアルプス山中に墜落して絶命──こう書くと、なんだそれは名ヴァイオリン奏者
ジャック・ティボーのことぢゃないか、と訝しがる向きもおられよう。そうなのだ、エルバンはそのティボー最後の伴奏ピアニストとして生死を共にした不運な音楽家なのである。37年の来日時には名チェロ奏者
モーリス・マレシャルに同行し、東京で録音まで残している(「夏の名残の薔薇」「アニー・ローリー」、山田耕筰「今様」ほか。
→これ)。
エルバンの不幸はそればかりではない。伴奏家・作曲家としてのキャリアは第二次大戦の勃発で妨げられ、39年に応召して間もなく独軍の捕虜となり、二十代末から三十代にかけての五年間を捕虜として過ごす。その間も作曲を続け、45年パリに帰還後はブランクを取り戻すべく、パスキエ三重奏団との共演など旺盛な活動を再開するが、それも束の間、53年には悲劇的な事故死を遂げる。享年四十二。彼に残された日々は余りにも短かったのだ。
有望な作曲家の早世を惜しむ声はほうぼうから寄せられた。大先輩
フローラン・シュミットをはじめ、タンスマン、デュティユーはエルバンの才能を高く買っていたというし、遺作となったピアノ協奏曲(1952)はピアニスト仲間として親交のあった名手
ヴラド・ペルルミュテールの手で56年に初演された由。以上の情報はすべて当アルバムのライナーノーツに負うている。
円熟をみることなく終わったエルバンの遺産は戦後の目まぐるしい楽壇の変遷に伴い、やがて忘れ去られたが、それではならじとひとりのピアニストが立ち上がった。ペルルミュテールの愛弟子
エリザベト・エルバン Élizabeth Herbin──いうまでもなく彼女は作曲家の遺児である。幼くして死別したため父の面影の記憶はないというが、彼女はペルルミュテールやデュティユーの協力を得て、1992年に「ルネ・エルバン音楽協会 Société Musicale René Herbin」を発足させた。本CDはそうした彼女の一連の努力の産物として世に出たものだ。
初めて聴くエルバン作品はたいそう美しく、紛れもなくフランス近代の香りが馥郁とする。すぐに連想されるのはルーセルやフローラン・シュミットといった先行世代の音楽だが、中間楽章冒頭のヴィオラの長く内省的な独白や、終楽章の熱っぽい錯綜には個性的な味わいもある。
さはさりながら、彼は1911年生まれというから、メシアンとデュティユーのちょうど間に挟まれた世代であり、この四重奏曲の1949年という作曲年に照らして、作風が余りにも古めかしい。もしも彼が惨事に遭わず長壽を全うしたとして、果たして戦後の仏楽壇を背負う大家になれたかは大いに疑問だ。おおかたブーレーズあたりに名指しで非難されるのがオチではなかったか。あるいは一歳下のジャン・フランセのように器用に生き延びただろうか。
フィルアップされた(というか同日の演奏会で奏された)フローラン・シュミット二曲も掬すべき音楽だ。しかもエルバン作品との親和性がたいそう好もしい。とりわけ同じ編成による四重奏曲 "Les Hasards" は秀演だ。出色の演奏としてお奨めできる。アルバムとしてのまとまりも申し分ない。
一夜のコンサートの実況録音とは思えぬ緻密で高度な演奏内容にも感心した。忘却の淵に沈んだ父を蘇らせようという愛娘エリザベトの切なる願いから生まれた比類ない一枚。マイナー・レーベルの探しにくい盤だが、機会があったらぜひ。
そのエリザベト・エルバン嬢が開設したルネ・エルバンのHP(
→ここ)を発見した。ここから更なる有益な情報が得られるだろう。