いやはや長生きはしてみるもんだ。このところ思いも寄らぬ発見──より正しくは再発見が相次いでいる(例えば
→奇蹟の出現「トゥー・マッチ・ジョンソン」)。その都度、歴史的瞬間に立ち会う歓びをしみじみ噛みしめている。え? 今度は何が見つかったって? もちろん「永遠」に決まっている。
まずは、これだ。朝日新聞デジタル版(9月7日配信)から引く。
「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた日本初の映画スター、尾上松之助(おのえまつのすけ、1875~1926)が主演した「忠臣蔵」の映画フィルムが、京都市内で見つかった。生涯に一千本以上の作品に出演したとされるが、映画フィルムはこれまで十本程度しか確認されておらず、極めて貴重だ。松之助の生誕140年を記念し、10月の京都国際映画祭で上映される。
見つかったのは、1926年に日活が製作した「実録忠臣蔵」(池田富保監督)を家庭向けに再編集した9・5ミリのパテベビー版(無声)の完全版。全四巻で合わせて約66分になる。
古い映画フィルムや映写機を収集展示する「おもちゃ映画ミュージアム」(京都市中京区)に6月、熊本県の個人から寄贈されたフィルム群の中に含まれているのを、ミュージアム代表理事の太田米男・大阪芸術大教授が発見した。
当時の映画フィルムは燃えやすかったこともあり、多くが廃棄や火災などで失われ、ほとんど現存していない。松之助の「忠臣蔵」は、日本映画の父、牧野省三が10~12年に監督した複数の作品を一本に編集したフィルムが残るが、今回のものは松之助最晩年の主演作。京都文化博物館(同)にパテベビー版の約20分の断片が現存しているが、今回は完全版で、江戸城松の廊下の刃傷事件や松之助演じる大石内蔵助が雪の中を吉良邸へ討ち入る場面なども含まれる。うわあこれは観たいなあ。なにしろ黎明期の大スタア「目玉の松ちゃん」最晩年の《忠臣蔵》ですよ! 家庭向けの再編集版とはいえ、ちゃんと見せ場の数々を具備した(ほぼ)完全版というのだから心が騒ぐ。よく残っていたものだと感涙にむせぶ。なにせ無声期の日本映画の残存率は悲しいくらい低いのだ。
続いては──こちらが小生にとっては「本命」なのだが──海外から届いた驚くべき「再発見」。高名なストラヴィンスキー研究家スティーヴン・ウォルシュが寄稿した『オブザーヴァー』紙の記事(9月6日付)。煩を厭わずに全文を翻訳しておく。
20世紀最大の作曲家の重要な初期作品で、惜しくも失われたと百年以上も考えられてきた楽曲が、サンクト・ペテルブルグ音楽院の倉庫で古い手稿の山のなかから忽然と姿を現したのだ。
イーゴリ・ストラヴィンスキーは「葬送の歌 Pogrebal'naya Pesnya / Funeral Song」を恩師リムスキー=コルサコフの追悼のため作曲した。師が1908年6月に歿した直後のことだ。十二分間の音楽は1909年1月、音楽院でフェリックス・ブルメンフェリド指揮によるロシア交響楽演奏会でただ一度だけ演奏されたものの、1917年の革命とそれに続く内戦で失われたと長く信じられてきた。
ストラヴィンスキーはこれを初期の最良の作品だったと回想するが、肝心の音楽の中身については憶えていなかった。
彼はこう語っている。「《火の鳥》の直前に果たして自分がどんな曲を書いていたか知りたいものだ」。1910年6月、ディアギレフのバレエ・リュスのパリ公演で上演されたバレエ《火の鳥》は、一夜にして彼に名声をもたらしたのである。
永年の間、ロシアの音楽学者たちはこの曲の草稿がサンクト・ペテルブルグのフィルハーモニーか音楽院のアーカイヴに残された膨大な未整理楽譜のなかに埋もれているはずだと主張してきた。しかしながら、ソ連時代には捜索作業は一向に進まなかった。亡命モダニストであるストラヴィンスキーは存在しない人物と看做されていた。探究は資料の混乱と分類システムの不在によって阻まれた。保管所の建物は修理も拡張も近代化もなされぬままだった。
ロシアのストラヴィンスキー研究家ナタリヤ・ブラギンスカヤは音楽院の文書係の協力を得ながら、稔りのない捜索を繰り返してきた。ところが昨年秋になって、ようやく決まった改修工事に備えて建物の内部を空にする必要が生じ、何十年も手つかずだったピアノ譜とオーケストラ譜がぎっしり詰まった棚の背後から、それまで隠れていた手稿の山が出現した。その場所で図書館員が忘れられたオーケストラのパート譜に目を留めた。まさしくブラギンスカヤから探索中と話に聞かされていた作品そのものだった。
その図書館員の慧眼がなければ、手稿はそのまま箱詰めされるか、せいぜい離れた場所に別置されて、次の百年を空しく過ごすところだった。ブラギンスカヤは時を移さず論文をしたため、9月4日にサンクト・ペテルブルグで開催された国際音楽学協会のストラヴィンスキー学会で発表した。
「葬送の歌」が初演されたときストラヴィンスキーは弱冠二十六歳。作曲家としてはまだほんの駆け出しで、国外はもとより、ロシア国内でもほとんど知られていなかった。ところがそれから四年間で、彼は《火の鳥》《ペトルーシュカ》《春の祭典》を作曲し、あらゆるモダニスト中で最も名高い存在にまで上り詰める。
オーケストラ用のパート譜(総譜は発見されず、新たに再構成する必要がある)を研究したブラギンスカヤは、「葬送の歌」が緩慢なテンポが終始変わらぬ、楽器の音色のコントラストが際立つ音楽だと述べている。この音響的な対話は、ストラヴィンスキーが二十五年後に自伝のなかで大まかに回想した内容とも合致している。そこにはリムスキー=コルサコフの感化がみられるが、(彼女によれば)同時にワーグナーからの影響も色濃い。ワーグナーの音楽は後年の彼が追認した以上にストラヴィンスキーを魅了していた。
この物語には心惹かれる余談がある。ストラヴィンスキーは計画中だったいくつかの追悼演奏会で、自分の作品が演奏されるのを強く望んでいた。リムスキー=コルサコフ未亡人や、遺児ヴラジーミルや、指揮者アレクサンドル・ジローティに宛てた書簡が現存するが、彼はそれらの手紙のなかで、サンクト・ペテルブルグ楽壇の中枢でまだ認知されず、その判定を気遣う新人作曲家らしく、不安げに言葉を尽くして懇願している。そこにはすでに訣別の微かな兆しがあり、ストラヴィンスキーがパリで劇的な成功を収めてからは、その方向に拍車がかかる。だがこの時点ではまだ、誰一人それを知る由もなかったのだ。
この次に見つかる「永遠」は果たしてなんだろうか。それが山中貞雄のデビュー作《磯の源太 抱寝の長脇差》か、モンテヴェルディの失われた歌劇《アリアンナ》だったなら、どんなにか素晴らしいことだろう!