マーク・ロスコがNYのシーグラム・ビルのレストランに飾る連作絵画を依頼され、1958年から二年の歳月を費やして四十枚ほどの大カンヴァスを仕上げながら、展示場所に落胆して契約を一方的に破棄し、作品の引き渡しを拒んだ・・・という逸話は、美術館時代にギャラリートークで何百回となく口にした。
それもそのはず、その一連の「シーグラム壁画(Seagram Murals)」のうちの七枚が、小生の奉職した館に所蔵されていたからだ。それらの壁画は今もDIC川村記念美術館の特別展示室「ロスコ・ルーム」(
→ここ)に常設展示されているから、「あゝ、あの赤茶色の絵でぐるり囲まれた部屋だな」と想起される方も多かろう。
そのロスコとシーグラム壁画をめぐる進捗と挫折の顛末が芝居になり、ウェストエンドとブロードウェイで評判になったと風の便りに聞かされたのは数年前のことだ。それがこのたび日本初演される。人気俳優が主演するためか、チケットはただちに完売したらしいが、難有いことに観劇フリークの妹がわれら夫婦の分も切符を確保してくれたので、先週の土曜日のマチネーで観た。
2015年8月29日(土)15:00~
新国立劇場 小劇場
シス・カンパニー公演
レッド RED
■
作/ジョン・ローガン
訳・演出/小川絵梨子
■
マーク・ロスコ/田中哲司
ケン(ロスコの制作助手)/小栗 旬
■
美術/松井るみ
照明/服部 基
音響/加藤 温
衣装/安野ともこ
企画・製作/シス・カンパニー多少なりともロスコとシーグラム壁画に予備知識をもって臨んだものだから、小生はこの芝居を「うぶな鑑賞者」として素直に愉しむことはできない。だから以下の感想は妹とも家人とも、同席した多くのファン(九割方が女性だった)とも異なる「事情通のバイアス」がかかってしまった。こればかりは致し方ない。
史実に拠れば、マーク・ロスコがフィリップ・ジョンソン(米国建築界の「丹下健三」)からじきじきに、NYのパーク・アヴェニューの一等地に建設中のシーグラム・ビルのレストランを飾る新作絵画の制作を打診されたのは1958年春。ロスコ五十四歳のときだ。
戦前から前衛絵画を志向し、シュルレアリスムの影響下で半抽象作品を描いてきた彼は、第二次大戦後にわかに作風を一変させ、多彩な色斑による完全な抽象絵画へと歩を進めた。年下のジャクソン・ポロックと共に、彼の新しいスタイルは批評家たちの注目を集め、先行する欧州の抽象絵画とは全く異質な達成として「抽象表現主義 Abstruct Expressionism」なる名称が献じられた。
内外でのアメリカ美術展では出品作家の常連に名を連ね、それまで滅多に買い手のつかなかったロスコ作品に高値が付き始めた。1957年には十七点の近作が19,133ドルで売れ、58年には十三点の対価として画廊から20,666ドルが支払われた、と記録にある。永年の貧乏暮らしを抜け出し、今やロスコは名実ともに米国美術界の大家の仲間入りを果たしていた。だからこそ、巨匠フィリップ・ジョンソンから白羽の矢を立てられたのだ。丹下健三がキリンビール本社ビルのレストラン壁画を岡本太郎に委ねる──と喩えたら少しは実相が想像できようか。
芝居はロスコに雇われた若者(台詞では言及されないが、台本に「ケン」とある)が初めて彼のスタジオを訪れる場面から始まる。史実に照らすと、これは1958年夏のこと。いよいよ開始する大作に備え、ロスコはNYのバワリー街に元は体育館だった広いスペースを借り、この新たな仕事場でシーグラム壁画に着手する。ケンはそのために助手として働くことになっている。助手といっても絵画制作そのものにはタッチしない。スタジオの整理と清掃、日用品の買物などの使い走り、木枠を組み、そこにカンヴァスを張り、画面に下塗りを施す。そこまでが助手の仕事である。あくまでも創作に関わらない雑用係なのだ。
このケンなる人物にはモデルがある。シーグラム壁画の制作時ロスコに助手として雇われたダン・ライス Dan Rice なる実在の人物がおり、作者はそこから発想してこの架空の若者=創作現場の目撃者を創造したのは間違いない。ただし、作中で回想されるケンの悲劇的な子供時代は全くのフィクションである。
スタジオに初めて足を踏み入れ、巨匠の前で緊張するケンに対し、ロスコは一枚のカンヴァスの傍に立つよう促して、だしぬけにこう尋ねる。「
さあ何が見えるか? Now, what do you see?」と。藪から棒の質問に、ケンの口から咄嗟に出た返答はこうだ──「
赤です。Red.」。
ロスコはいかにも巨匠らしい尊大な態度であからさまにケンを見下し、助手の仕事は雑用ばかりで創作には関与させないと言い放ったあと、ニーチェやフロイトの名を口にして若者の無教養をなじる。そして、制作中のカンヴァス群がNYに建設中のビル内のレストランのためのものだ、と誇らしげに長広舌をふるう。
「
フィリップ・ジョンソンとミース・ファン・デル・ローエ。この建築界の革命児、二大巨人が力を携え、未だかつてない建物を建てる。この街と住民、いや人類全体の輝ける野望を映し出しながら。建物にはフォー・シーズンズというレストランが入る。そのレストランの壁を飾るのだ」「
連中は私に三万五千ドルを支払う。他の画家連中は足元にも及ばない」。
スタジオのカンヴァス群を凝視しながら、ロスコは問わず語りに自らの芸術信条を吐露する。「
いいかい、私はこれまでの全生涯、場を創り出そうと努めてきた・・・
観る者が作品とともに瞑想できる場、私が作品に注ぎこんだ細心の熟慮を、観衆がいくらかでも感じ取れる場。まるで礼拝堂のような・・・。
心の交感の場だ」。思わずケンが「でも・・・レストランですよね」と口にするのを遮って、ロスコは強い口調で言い放つ。「
違う・・・
私は神殿を創ろうとしているのだ」。と、ここまでが第一場。
戯曲家ジョン・ローガンはさすがに事実関係をよく調べて書いている。シーグラム壁画を引き受けた経緯も史実そのままだし、ロスコがニーチェの著作に傾倒していたのも、彼がレストランを「
礼拝堂のような」空間に仕立てようと欲したのも本当だ。おそらくローガンはロスコ評伝の決定版として定評あるジェイムズ・ブレズリン James E. B. Breslin の著作をくまなく熟読し、さまざまな細部を生かしながら台本を組み立てたのだろう。作中ロスコがケンを相手に滔々とまくしたてる芸術論も、彼がさまざまな機会に自説を述べた講演やインタヴューから巧妙に引かれている。いかにもロスコが口にしそうな科白の連続に思わずニヤリとする。
ついでに云うと、第二場でスタジオのロスコが肘掛椅子に深々と坐って自作を見遣る光景は、有名な記録写真(
→これ)そのままだし、蓄音機を持ち込んで好きなクラシカル音楽を流しながら作業する、というのも実際の制作現場そのままだ(モーツァルトのセレナードをかけるのは演出家の指示らしい)。その第二場は第一場からかなり後、台本のト書きによれば「
何か月も経ってケンはずっとくつろいでいる」とある。恐らく1958年の後半、それも晩秋の頃であろうか。
ロスコはケンとの会話で、ローマで観たカラヴァッジョの絵(サンタ・マリア・デル・ポーポロ教会の《サウロの回心》)に言及するが、これは1950年に初めてヨーロッパを旅した際の回想であろう。ロスコは教会堂の穴倉のような暗がりで、カラヴァッジョの作品が内奥から輝いて見えたと語る。ロスコがスタジオ内の照明をいつも最低限に抑えるのも、これと同じ理由からなのだ。「
連中は私が操作していると言う。照明を操作し、絵の高さを操作し、展示室の形を操作する、と。操作してるんぢゃない、保護しているんだ。絵は周囲との関係で生かされ、あるいは死にもする。絵を世の中に送り出すのは危険な行為なのだ」。ロスコは自作が置かれる空間や環境に、神経質なまでに自覚的な画家だった。
ト書きにもあるように、第二場では助手ケンの立場が少しだけ変化し、ロスコとの間に一定の信頼感が醸成されつつあるのがわかる。むろん主人と下僕の間の信頼感なのだが。第一場では遠慮気味に「はい」「そうです」ばかり答えていたケンも、それなりに中身のある科白を口にする。とりわけ、「赤」という色をめぐって、両者が口角泡を飛ばさんばかりに言い争う場面はなかなかの迫力である。口論のあとでロスコが引き合いに出すマティスの油彩画《赤いアトリエ》は、実際にロスコがNY近代美術館で観て深い感銘を受けた作品である。そのとき、彼はこの赤で覆い尽くされたマティスの絵に、一か所だけ黒く塗られた箇所があると指摘し、次のように意味深長な科白を口にする。「
私が人生でたったひとつ恐れていることがあるんだ・・・
いつの日か、黒が赤を呑みこんでしまうのを」。
このあたりの両者の関係、信頼度や距離感の変化は、台本には巧妙に織り込まれているにもかかわらず、実際の舞台ではさほど明瞭に感知できない。理由はいろいろあろうが、ロスコ役の田中哲司に大物然とした貫禄が不足し、他を圧するような存在感を醸しだせないのが要因ではないか。早口でまくしたてる科白がいかにも一本調子で重みを欠き、深い思考や知見に裏打ちされた発言に聞こえないのは、役者、演出家双方の力不足に拠るものだろう。小栗旬のケン役は悪くない。傷つきやすい無垢な若者を演じて、なかなかに適役である。
続く第三場ではいよいよスタジオでの作業がつぶさに描写される。ケンは無地のカンヴァス布を木枠に張る作業に黙々といそしみ、その間ロスコは、昨晩シーグラム・ビルに立ち寄って、工事中のレストランを下見してきた、と云いながら、レコードを蓄音機のターンテーブルに載せる。両者の会話。「
ご自分の絵にそぐわない場所ではないか気懸かりなのでは?」「
あの空間に合わせて描くのだから、相応しくない場所のわけがないだろう。お前の理屈には苛々する」。
そのあと二人はニーチェの『悲劇の誕生』をめぐって、ディオニュソスとアポロンの相克について語り合う。ロスコお得意の話題である。そこにジャクソン・ポロックの個人的な悲劇、その緩慢な「自殺」の話題が絡んで、議論は俄かに白熱し火花を散らす。このあたり、史実を踏まえて台本は実に巧緻に練られているのだが、実際の舞台ではいかにも上滑りの感が否めない。覚えた膨大な科白をどうにかこなしている印象が払拭できないのは些か興醒めである。
自分の作品が結局のところ富裕層の豪邸の "overmantle" すなわち暖炉の上の飾り物にすぎないのではないか、という深刻な疑念をロスコが口にしたあと、いよいよ二人は共同作業に取りかかる。
(まだ書きかけ)