昨日は家人の発案で佐倉の国立歴史民俗博物館に赴いた。意外にも初めてだという。義弟が親切にも車で連れて行ってくれるというので助手席に便乗させてもらう。今にも降り出しそうな空。心配だが傘は持たずに出発した。
歴博は同じ佐倉にありながら川村記念美術館とはまるきり隔たった場所に立地し、最寄りの駅は京成佐倉駅。歩くとかなりの距離だし、城山の上にあるので上り坂がたいそうきつい。車だと楽チンなうえ、坂の上の駐車場から博物館までは指呼の距離。ほとんど歩かなくて済む。初老人には難有い。
まずは企画展示室で展覧会「ドイツと日本を結ぶもの──日独修好150年の歴史」をじっくり観る。幕末の1861年にプロイセン王国(統一ドイツ国家はまだなかった)と徳川幕府との間に修好通商条約が結ばれてから今日までの両国の関係を辿る。国立の博物館らしく、政治・外交面での関係が中心となるが、文化や学問の交流も展示の対象となる。主催者の口上から引く。
日本とドイツは、150年を越える交流の歴史を持ち、それぞれ「勤勉」や「規律」などに関する価値観では親近性を感じています。またドイツといえば、車やカメラ、サッカーやビールなどだけでなく、EUで主導的役割を果たしていることを想起する人も少なくありません。近年では、リサイクルなど環境保護の問題や原子力発電の問題などで、その動向に関心が集まっています。にもかかわらず、日本とドイツの交流の歴史について具体的に知る機会は、これまでほとんどありませんでした。本展は、外交や文化に関する日独交流の歴史を、本格的な「展示」というかたちで表現する、日本で初めての試みとなります。
戦後から現代までは、ともに連合国に占領されたのち、その後めざましい経済発展を遂げるという点で、両国は共通点を持ちます。冷戦下で東西に分裂したドイツのうち、ドイツ連邦共和国とは、民主主義・資本主義とそれに関する基本的な価値観を共有しました。ドイツはその後統一され、戦後70年を迎えて、日本とドイツ連邦共和国が世界のなかで果たすべき役割には共通するところが多くあります。同時に歴史的な環境の違いから異なるところも少なくありません。
本展を通して、多くの価値観を共有するとともに70年を経て異なる点のあるドイツと日本が、今後どのような新しい関係を築いていくのかについて考えるために、改めて両国の交流の歴史を振り返る機会を提供したいと思います。
なんの予備知識もなしに赴いたのだが、展示の充実に驚かされる。全体は「プロイセン及びドイツ帝国と幕末維新期の日本」「明治日本とドイツ」「両大戦下の日独関係」「戦後の日本とドイツ」の四章立て、前後にプロローグとエピローグが付く時系列のオーソドックスな構成による。
冒頭まずプロイセンから派遣された使節団と幕府との交渉が豊富な資料で紹介される。使節団に同行した画家が描いた興味深い記録画や、将軍家茂に献上されたリトファニー・プレート(ドイツ各地の名所旧跡を精密に版刻した白磁板。背面から光を当てて見る。 →これ)、プロイセンに派遣された使節団が持参した家茂の信任状(豪華な料紙に筆書きしたもの →これ)など、素人眼にも「ほほう!」「これは!」と瞠目する展示品が満載だ。
第二章の明治時代ではお雇いドイツ人教師の来日、留学生のドイツ派遣が相次ぐ。東京大学で医学部の基礎を築いたベルツやスクルバ、駒場農学校で下肥の化学分析(!)をしたケルネル(ケルナー)、さらにはライプツィヒとベルリンで衛生学を学んだ森鷗外など、興味深い事例が次々に紹介される。ドイツでもジャポニスムが盛行し、喜歌劇《ミカド》が上演されたり、川上音二郎一座が人気を博した経緯も同時代資料で辿られる。現物ではなく写真パネルだが、画家スレフォークトが写生した貞奴の肖像画(→これ)が目を惹いた。
明治期を通して日本が富国強兵の先達と仰いだドイツだったが、皮肉にも第一次大戦では両者は敵味方に分かれて青島で交戦する。戦闘は一週間で終結し、捕虜になった数千人のドイツ兵は日本各地の収容所に移送された。このとき収容所でさまざまな文化活動が許され、ベートーヴェンの「第九」が日本初演されたり、地元の日本人とさまざまな交流があったことは夙に知られているが、会場には多くの記録写真や同時代資料が展示され、《敵が友になるとき Feinde│Brüder》(ブリギッテ・クラウゼ監督作品 →HP)というドキュメンタリー映画がエンドレス再生されていた。ほんの部分的に観ただけだが、なかなかに感動的な内容のようだ。DVDがあるらしい。ちゃんと全篇が観たいな。
そのあと小春日和のワイマール共和国は須臾にして過ぎ、時代はあっという間にナチス政権と軍国日本との禍々しい関係にシフトする。日独共同制作の国策映画《新しき土/サムライの娘》(伊丹万作/アルノルト・ファンク監督)やら、ドイツから名取洋之助が伝えたプロパガンダ宣伝術の結実である『FRONT』やら、ヒトラーが来訪したベルリンでの日本美術展、ヒトラー・ユーゲントの来日などが丹念に辿られる。空前のベストセラーとなった第一書房版『我が闘争』(1940刊)も展示されていた(後年これが災いして同社は廃業した)。いやはやパンドラの函から魑魅魍魎が跳梁跋扈する塩梅だが、唯一の「希望」としてナチスの反ユダヤ政策に抗して通過ヴィザを発行した杉原千畝にもコーナーが割かれる。
最後の第四章「戦後の日本とドイツ」はやや急ぎ足ながら第二次大戦後、今日までの両国の関係と交流が語られる。その実例として1950年代にミュンヘンに留学し、ベルリンに壁ができる直前にベルリナー・アンサンブルの舞台をつぶさに観た岩淵達治の青年時代に光を投げかけられる。展示スペースが狭くて充分に展開できなかった憾みはあるが、当時の貴重な写真(→羽田空港からの出発時)からは後年ブレヒトとハイナー・ミュラーの研究と紹介に尽力することになるドイツ演劇探求の出発点が留学時代にあったと実感された(このコーナー展示は恐らく令息が近年までこの館に奉職したことから実現したのだろう)。この碩学の謦咳に何度か接した小生には興味津々であり、キャプションに同時期のミュンヘン留学生として、わが師である前川誠郎の名がチラと出るのも面白かった。
この最終章は七十年間にわたる歳月を扱う割に展示品も少なく、スペース的にも狭くて些か地味な扱いだが、訴えかけは最も強く重たい。周囲の諸国を侵略収奪した挙句、完膚なきまでに叩きのめされて焦土と化したあと急速な経済的復興という相似形を辿りながら、両国の歩みには決定的な違いがある。
冷戦下でドイツが長く東西に分断されていたという事情も無視できないが、それとともに戦後のドイツが国家としてはニュルンベルク国際軍事裁判を正式には受け入れていない(!)というのは歴史に昏い小生などには衝撃の事実である。その代わり、ドイツでは時効を停止して国内法に基づく戦犯の訴追を営々と続けている。極東軍事裁判を唯々諾々と受け入れた代わり、それ以上もう戦争責任の所在を不問に付したわが国とはあまりにも異なる対応であり、その対照的な態度の意味するところを来館者に深く考えさせようと促す。
これは遠い七十年前の出来事ではなく、今まさに我々が直面する課題なのだと強く訴えかける。そこに本展監修者の意志と良心を感じ取って粛然となる。国立の研究機関での展示でありながら、この勇気ある問題提起に心からの賛同を覚えた。これはドイツが正しく日本がおかしいという正邪の問題に留まらない。過去に学び、現代を考え、未来に繋げようとする国民的自覚の有無の問題なのだ。
そのあと館内の食堂で遅い昼食。それなりの味のトンカツ定食に加え、期間限定だというドイツ・ソーセージの盛り合わせを追加註文。ビールも・・・と口にしかけて家人から窘められた。
午後は初めてだという家人とその弟君につきあって、この館の常設展示を観る。いうまでもなく、ここの展示は日本史を時代ごとに豊富な遺品(含レプリカ)と精巧な模型とで「見てきたように」辿る。歴史好きにはこたえられない場所である。ただし規模が膨大。旧石器時代から江戸初期あたりまで来たところで午後三時を回って疲労困憊。ここの展示を一度に全部観るのは到底不可能なのだ。
そのあと、少し離れたところにある付属施設「くらしの植物苑」で特別企画「伝統の朝顔」をちょっとだけ覗く。多種多様な変わり朝顔がずらり並んで壮観だが、こんな時刻なので朝顔はあらかたしぼんでいたのは残念。午前中に来るべきだった。
追記)
「ドイツと日本を結ぶもの──日独修好150年の歴史」展については以下のサイトでの紹介が懇切丁寧でいろいろ教えられた。
→古川幹夫さんの取材記事(Internet Musiumのサイト)