「
冬にクリスマスがあって、夏にないのはおかしいぢゃないか」──なんだか「冬にも冷し中華が食べたい」という山下洋輔一党の主張みたいだが、この屁理屈とも言いがかりともつかぬ論法から生まれたのが「サマークリスマス」である。提唱者はTBSアナウンサーの林美雄さん。要は自分の誕生日の8月25日を深夜ラジオ番組「パック・イン・ミュージック」のリスナー全員に祝ってもらおうという、我田引水で虫のいい、それこそ神をも恐れぬ身勝手な思いつきであった。
その第一回目は1974年8月25日、番組のマドンナだった石川セリ、荒井由実、中川梨絵の三人をゲストとして企てられた。すでに林さんの「パック」は放送終了が決まっており、半ばやけっぱちの気分もあって、「第一回サマークリスマス」の目論みは異様に盛り上がった。瓢箪から駒が出た塩梅だ。
ところが当日の東京には颱風が襲来し、会場の代々木公園は・・・という話はこのブログでもう何度も繰り返し記したし、友人たちのサイト「荻大ノート」にも詳しく書いた(
→その1、
→その2)。それをさらに拡張し、さまざまな証言を交えて検証したのが柳澤健さんの連載「
1974年のサマークリスマス」だった(月刊『小説すばる』2013年8月~14年11月号)。だからもう、この日のことは委細もらさず語り尽くされ、付け加えるべき新事実はさしあたって何ひとつない。
さて今日は2015年8月25日。きっかり四十年前の1975年8月25日には、めでたく「第二回サマークリスマス」が催された。
わざわざ「めでたく」と書き添えたのは、こんな思いつきの泡沫イヴェントに二度目があったという嬉しさからだが、それ以上に、誰もが予期しなかった「林パック」復活(1975年6月)という驚きを踏まえてのことだ。さらに云うならば、悪天候で前年には叶わなかった代々木公園での開催がようやく実現したという「めでたさ」もそこに加わった。もともと林さんの思い描く「サマークリスマス」には誕生祝という以上に確たる中身はなく、「代々木公園で、セリとユーミンと一緒に、何もしない会」という仮称だった。せいぜい、ハンカチ落としや手つなぎ鬼をして遊ぼうという他愛ない企て。だから代々木公園という、だだっ広い会場が選ばれたのだろう。
それで当日の催しはどんなだっただろう。愉しい会だったのか。
悲しいかな、小生は殆ど何も憶えていない。経過した四十年の歳月の長さを痛感させられるが、一年前の「第一回」の記憶があれほどヴィヴィッドで、動画を再生するように蘇るのに対し、この「第二回」についてはきれぎれの断片的な映像、それも色褪せた静止画像しか脳裏に浮かばないのは一体どうしたことか。
恐らくそれは小生自身の立場の違いに起因している。前回は参加者のひとりとして一部始終を心ゆくまで傍観できたのに対し、今回は作り手の一員として参画し、しかも当日の司会進行の大役まで仰せつかった。だから緊張の極にあって、記憶のフィルムを廻す心のゆとりがなかったのだ。どうしてそんなことになったのか。事の次第は自分でもさっぱりわからない。
一緒に司会を務めてくれたのは仲間のひとり、野沢直子さん。小生と同い歳だが、はるかに大人びて冷静沈着で、そのうえ美女。彼女は「林パック」から生まれた自主グループ「深夜映画
(オールナイト)を観る会」の提唱者で、しかも前年の司会役のひとりでもあったから適任なのだが、仲間内でさして中心的な立場にない小生が選ばれたのはどうにも不可思議な成り行きだ。おおかた最年長で(といっても二十二歳)長老的な役回りだったというのが消極的な抜擢理由だろう。
上述の柳澤健さんの取材インタヴューに応えて、小生は次のように回想した。
[野沢さんと一緒に] 胸にみどりぶた [=林さんの愛称] のイラストの入ったお揃いのTシャツを着たことと、恐ろしく緊張していたこと以外、ほとんど何も覚えていないけど、きっと大過なく終わったんでしょう。この時に撮ったたくさんの写真を見る限り、林さんも石川セリも、参加したリスナーたちも、誰もが屈託なく幸せそうに笑っているから。 ──「1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代」連載 第13回、『小説すばる』2014年8月号柳澤さんには申し訳なかったが、本当にこの位しか思い出せないのである。
ただし、この日撮ったスナップ写真は豊富にあって、カラー、モノクロ併せて三十枚以上が今も手元に残る。それらをとっかえひっかえ眺めると、マイクを手に何事かしゃべる林さんや石川セリを中央に、参加者が車座にしゃがんでいる場面や、皆が手を繋いで長い列をなしている光景が何枚もある。後者は明らかに「手つなぎ鬼」に興じているところだろう。一年前に果たせなかったことへのリヴェンジだ。このほか「ハンカチ落とし」もしたような気がするがもう定かでない。
そうかと思うと、木立を背にした一郭でセリがマイクを握っていて、その傍らに小生が拡声器を抱えて立つ場面もある。ひょっとして彼女はアカペラで歌ったのか。恐らく《八月の濡れた砂》を、だろうが、このあたりの記憶は残念ながら完全に欠落してしまっている。因みに、このマイクと拡声器は仲間の荒川俊児さんが関わっていた反公害運動グループから拝借した。
この日、ユーミンは来ていない。柳澤さんの調べによれば、彼女は九州ツアー中に過労で倒れて臥せっていたとのこと。このほか、ゲストに漫画家の高信太郎さんも加わったはずなのだが、手元の写真には写っていない。
これらの写真をみる限り、当日の天候はまずまずだ。ネット上で調べてみたら、終日曇りだったとあるが、薄日が射している写真も多く、暑すぎない快適な行楽日和だったようだ。参加者の人数は前年よりも少なめで、ざっと二百人位だろうか。月曜日だったこともあり、見たところほぼ全員が学生かと察しられる。
当然ながら、わが仲間たちの姿がどの写真にも写っている。一年前には「パ聴連」=
パック林美雄をやめさせるな!市民連合を結成していた我々だが、所期の目的を達成してからは「荻大」=
荻窪大学を名乗っていた。一年間の期限付きで友人から借りた荻窪のアパートの一室を皆で共同管理し、そこを拠点に映画や芝居やライヴハウスに出かけたり、自主制作で8ミリ映画を撮ったり、草野球チームを結成したりした。もちろん泊り込んでの酒盛りも日常茶飯。そうするうちに家族同然の親しい間柄になった。写真のなかの仲間たちがお揃いの真新しい野球帽──荻大マーク「OU]があしらってある──を被っているのはご愛嬌だ。誰も彼も十代から二十代の初めで恐ろしく若い。今から四十年前なのだから当たり前か。
この日の演しものや遊戯の趣向は、おそらく野沢さんを中心に、「荻大」の仲間たちが無い知恵を絞って考えたものだろう。林さんはあくまでも主賓という立場だから口出しは一切なし、TBSからの応援もなかったはずだ。脈絡ない内容を司会者ふたりはどのように繋いだのだろう。さぞかし中弛みしたことだろうが、無我夢中でそれに気づく余裕すらなかったのだ。傍目には内容が貧弱でいかにも素人くさく、段取りの悪い司会進行だったに違いないのだが、それでも写真のなかでは誰もが屈託ない柔和な表情を浮かべている。なんと幸福なひとときだったことよ。林さんも終始にこやかにご満悦の様子だ。
終わり近くに、夏らしく西瓜割りをした。目隠しした林さんやセリがあらぬ方角に棒を振り下ろす可笑しな写真が残っている。そのあと最後に参加者のなかから力自慢の男が進み出て、林さんに草相撲を挑む──という段取りだったと思う。仲間のひとりN君(陸上部で鍛えた筋肉質の体格)がその役を買って出、手加減して林さんを勝たせる手筈だったのに、力任せに林さんを転がしてしまった。見事に投げを打った瞬間も、芝生の上に転がされた林さんが大の字になった姿も写真に撮られている。この日、三十二歳を迎えたばかりの林美雄のなんと若々しいことよ。
「サマークリスマス」は翌76年にも、次の77年にも同じ代々木公園で催されたらしい。だが、不思議なことに私たちは誰ひとり参加しなかった。そこには様々な事情が複合的に絡んでいる。そのあたりは、柳澤さんの連載をお読みいただくに如くはない。1975年の「第二回サマークリスマス」は、だから私たちが夏空の下で林さんと無邪気に遊び興じた、「ただ一度、二度はない(Das gibt's nur einmal. Das kommt nicht wieder.)」、思い出の一日となった。