またもや暑さがぶり返したようだ。頭上の太陽は七十年前の今日もかくやと思われるほど容赦なく照りつける。家人の誕生日を祝って、近所で上等な麺麭を仕入れてきて葡萄酒で乾杯。昼間から酩酊してしまい、うとうと午睡して今しがた目覚めたところ。かくなるうえは真夏に聴くべき音楽の真打の登場である。
"Beerlioz: Les nuits d'été, La mort de Cléopâtre -- Boulez"
ベルリオーズ:
夏の夜
■ ヴィラネル**
■ 薔薇の亡霊*
■ 入江のほとり*
■ 君なくて**
■ 墓地にて**
■ 未知の島*
クレオパトラの死*
メゾソプラノ/イヴォンヌ・ミントン*
テノール/ステュアート・バロウズ**
ピエール・ブーレーズ指揮
BBC交響楽団1976年9月24、25日、ロンドン、アビー・ロード、EMIスタジオ1
Sony 88843013332 CD42 (1978/2014)
→アルバム・カヴァーベルリオーズの歌曲集「夏の夜」はその成り立ちに由来する厄介な問題がある。八年ほど前に書いた拙ブログから少し引くと、
今日ではこの歌曲集はひとりの歌手(おおむねソプラノかメゾソプラノ)が全曲を通して歌うのが通例になっているが、果たしてそれでいいのか、という問題である。それはベルリオーズが管弦楽伴奏の「決定版」譜面を完成させたときに端を発している。彼はそれぞれの曲頭に、歌われるべき声域を次のように明記した。
1. ヴィラネル(原詩/律動的なヴィラネル) メゾソプラノまたはテノール
2. 薔薇の亡霊 コントラルト
3. 入江のほとり(原詩/漁夫の唄) バリトン、コントラルトまたはメゾソプラノ
4. 君なくて メゾソプラノまたはテノール
5. 墓地にて(原詩/ラメント) テノール
6. 未知の島(原詩/舟歌) メゾソプラノまたはテノール
かてて加えて、ベルリオーズはそれぞれの歌の声域にあわせ、親しくしていたワイマール宮廷の歌手(男女とりまぜて)に別々に献呈までしている。作曲者の念頭にはひとりの女性歌手が六曲を歌い通すという発想はなかったらしい。少なくとも最終的な管弦楽伴奏版では確実にそうだったといえそうである。
この事実はかなり以前から知られており、例えば1970年初頭にフィリップスから出たコリン・デイヴィス(当時はベルリオーズのスペシャリストと目された)指揮によるLP(→アルバム・カヴァー)では、実際にこの歌曲集をソプラノ、メゾソプラノ、テノール、バスの四人に振り分けて歌わせていた。事情を弁えなかった小生は、当時これを「なんという奇妙なことをするのだろう」と訝しく聴いたものだった。
作曲者ベルリオーズの最終的な目論見では、この歌曲集「夏の夜」は男女取り混ぜて二人から四人の歌手がとっかえひっかえ交代で歌う、という構想だったらしい。19世紀には一夜のプログラムに雑多な演目が混在し、多くの演奏家が動員されることが珍しくなかったので、こんな贅沢な役割分担も可能だったのだろう。
ベルリオーズが付曲したテオフィル・ゴーティエの詩が描き出す愛の姿の多様性にも目を瞠る。
一口に「愛の歌」というが、その諸相はまことにさまざまであって、漠然と音楽を聴き流すと気づかずに過ぎてしまうのだが、原詩と首っ引きでじっくり味わうと、その世界の広大さ、豊穣さに驚かされる。
無邪気であどけない恋心を素直に歌った「ヴィラネル」から、失恋の痛手を嘆き哀しむ「君なくて」、死者を偲んで深く沈潜する「入江のほとり」と「墓地にて」、果てしのない憧憬を謳い上げる「未知の島」まで。
二曲目の「薔薇の亡霊」はしばしば「薔薇の精」と訳される(バレエ・リュスでニジンスキーがこの詩を下敷きに、同名のバレエを踊った)が、ゴーティエは主人公を「精、化身 génie」ではなく、はっきり「亡霊 spectre」と特定し、「僕が命を落とした原因は君だよ」と女性に呼びかけさせている。
ゴーティエの詩はおおむね男性の視点から語られ、愛の対象は「美しきひと ma belle」「美しき友 ma belle amie」と女性形で呼びかけられる。「薔薇の亡霊」の「亡霊」も、まあ間違いなく男であろう。ベルリオーズが最終的にいくつもの歌をテノールやバリトンといった男声に割り振ったのも無理からぬことなのである。
そんなわけで歌曲集「夏の夜」を男女四人に振り分けたコリン・デイヴィス録音の大胆な実践を踏まえて、やはり従来どおりひとりの(女性)歌手で通すか、複数の(男女の)歌手に分担させるか、続く録音においては指揮者の見識がそのつど問われることになった。
すでに幻想交響曲とその続篇「レリオ」の録音(1968年、
→アルバム・カヴァー)で、ベルリオーズに一家言をもつと看做されたピエール・ブーレーズも、いわばコリン・デイヴィスの顰みに倣う形で、「夏の夜」を複数の歌手に委ねたのである。ただし四人ではなく男女二人。それぞれに三曲ずつ歌わせた。
小生はこれを米ColumbiaのLPで聴いた。ただしリアルタイムではなく、十数年のブランクを経て再びクラシカル音楽に回帰した1980年代後半のことだと思う。ミルトン・グレイザー Milton Graser (彼は前述したブーレーズの「幻想」+「レリオ」のLP装画も手がけた)の描く神秘的な装画(恐らくクレオパトラのイメージだろう)が滅法よく、矯めつ眇めつ眺めながら聴いたものだ。このアルバム・ジャケットが気に入った小生は拙著『12インチのギャラリー』にも収録した。文句なしに推奨できる「殿堂入り」デザインなのだ。
CD時代の再発売盤は箸にも棒にもかからぬ劣悪デザインだったので、どうにも手に取る気にならず、先年ブーレーズの全Columbia録音がボックス・セット化された折り、LPデザインを忠実に再現した「紙ジャケ」CDがようやく出たので、バラ売りされた一枚を三十年ぶりに手にした。やはりこうでなくちゃね。ことほど左様に小生はデザインの悪いディスクを忌み嫌っているのだ。
そういう次第で、遂に昔どおり復活したブーレーズのベルリオーズ。素晴らしく上質な演奏だ。管弦楽が明晰に鳴るのは彼の流儀そのものだが、繊細な歌心にも不足しておらず、実に好もしい「夏の夜」だ。テノールとメゾソプラノの役割分担も納得できるし、両歌手の歌唱も満足のいく出来映え。併録の「クレオパトラ」も名演&名唱だが、夏に聴くにはちと暑苦しいかも。
とまれ今後も永くわが座右に置いて愉しみたい一枚だ。
せめて音だけでもお裾分けしておこう(
→これ)。