息も絶え絶えながら、どうにか原稿を書き終えて、胸の閊えがすうっと下りた。これで心おきなく音楽が聴ける。だがこの堪えがたい暑さ。重厚長大な管弦楽は願い下げにして、すっきり爽やかなピアノ曲で耳を愉しませたい。「英国印象派」(そんなものがあると仮定してだが)が紡ぎ出した繊細で瀟洒な音楽はどうだろうか。
"In the Garden of Soul-Sympathy --
Cyril Scott: Piano Music -- Dennis Hennig"
シリル・スコット:
二つの小品 作品47 (1905)
■ 蓮の国
■ コロンビーネ
二つの「ピエロ」小品 作品35 (1904)
■ 悲痛なピエロ
■ 陽気なピエロ
ピエレット (1912)
詩曲 (1912)
■ 罌粟
■ 魂の共感の庭
■ 鐘
■ 年の黄昏
■ 極楽鳥
三つの悲しき舞曲 作品74 (1910)
■ 悲痛な舞曲
■ 東洋の舞曲
■ 苦悩の舞曲
ソナタ 作品66 (1909)
ピアノ/デニス・ヘニッグ1991年4月9日、ペンリス(シドニー郊外)、ジョーン・サザーランド・パフォーミング・アーツ・センター
Etcetera KTC 1132 (1991)
→アルバム・カヴァー1879年生まれのシリル・スコットは1970年まで存命だった。ちょうどその前後に小生はクラシカル音楽を熱心に聴きだしたわけだが、作曲家としての彼の名声はほぼ完全に損なわれ、その訃報に接した記憶もない。
試みに手許にある当時のレコード目録の類を繙いてみたが、アルファベティカル・オーダーに従うならSchumannとScriabinの間に来るべき彼の項目はない。僅かにフリッツ・クライスラーの古いSP録音に、ヴァイオリン用に編曲された小品「蓮の国(蓮の花の国) Lotus Land」が含まれるのみ。事情はほぼ同世代のパーシー・グレインジャーについても同様だった。彼もまたクライスラーの編曲になる「ロンドンデリーの歌」で辛うじて名を留めるにすぎなかったからだ。
だから、そのあと幾星霜あって大田黒元雄の戦前の著作のなかにシリル・スコットの名が頻出するのを発見して「昔はそれなりに名のある作曲家だったのだなあ」と奇妙な感慨に襲われた。大田黒は1914年に留学先のロンドンでスコットの自作自演コンサートを聴いており、1918年の著作『続バッハよりシェーンベルヒ』ではラヴェルやディーリアスやヴォーン・ウィリアムズやプロコフィエフと並べて、シリル・スコットにも一章を献じている。1920年代の初めロンドンに遊学した野村光一の滞在先はスコットの家の真向かいだったそうだ。そうそう、大田黒はシリル・スコットの著作を邦訳までしている。『音楽に関聯せる近代主義の哲学』(第一書房、1926)という。大変な入れ込み方だったのである。
にもかかわらず、日本に限らず欧米でもシリル・スコットの名は永らく忘れられていた。彼には多数のピアノ小品に加え、各種の室内楽、交響曲、オペラまで膨大な数の作品があったのだが、LPで聴けたのは先に記した小品「蓮の国」の古めかしい編曲版のみ。小生の知る限り、新録音がなされたのは二曲のピアノ協奏曲(独奏/ジョン・オグドン、指揮/バーナード・ハーマン、1975頃、Lyrita盤)くらいではなかったか。同じ頃にMartha Anne Verbitなるピアニストがスコットのピアノ曲集アルバムを出していた("The Piano Music Of Cyril Scott" 1974、米Genesis盤)らしいが、寡聞にしてまるで知らなかった。
そんな次第だから、CD時代になってほどなく、1991年にこのような形でシリル・スコットのピアノ曲集がオーストラリア人ピアニストによって録音されたのは劃期的な出来事だった。あの懐かしい「蓮の国」を筆頭に、詩的でエヴォカティヴな題名をつけたピアノ小品が陸続と奏される。ドビュッシーをちょっと感傷的にしたような、夢から醒めたうつつのような、あえかな美しさを湛えた小宇宙だ。
とりわけチャーミングなのは「詩曲 Poems」と題された五曲。楽譜にはスコット自作の詩が添えられているらしい。それらのうち「魂の共感の庭 The Garden of Soul-sympathy」と「鐘 Bells」の二曲は1916年10月5日、他のスコット作品やマクダウェル、山田耕作のピアノ小品とともに、大田黒元雄によって日本初演された(「ピアノの夕」東京・大森、大田黒邸)。そんな由無し事を思い浮かべながら往時を偲ぶと、さしもの酷暑も凌げそうな気がしている。
本CDの奏者デニス・ヘニッグ Dennis Hennig はこれに引き続いてシリル・スコットの全ピアノ音楽の録音を志したが果たせなかった。本録音の僅か二年後、ピアニストはエイズ死した。享年四十一。