石田長生が亡くなったという。一昨日のことらしいが、旧友のミクシィ上の呟きで今しがた知った。享年六十二。1952年生まれなので小生ときっかり同い歳である。いやはや、思い出深い人物が次から次へといなくなる。そして誰もいなくなった・・・では悲しすぎるが、それが人生というものなのか。
ずっと現役で活躍したそうだが、小生にとっての石田長生は1975~76年、破天荒なスーパーバンド「
ソー・バッド・レヴュー Sooo Baad Revue」での石田長生だ。それ以外にはあり得ない。
ただし、この短命なグループの生演奏を聴くことができたのは1976年4月18日、日比谷野外音楽堂での「スプリング・カーニバル」ただ一回だけだと思う。そこで唄われた「
最後の本音」(ヴォーカル/砂川正和)こそ、石田が作詞・作曲を手がけた一世一代の名曲なのである。それをまず聴こう。
→ソー・バッド・レヴュー「最後の本音」誰か教えてほしい
俺の行くべき所
導くお前が
盲目でないなら
齧りかけの林檎は
そのままにしてるし
拗ねたあいつは
背中で罵る
冗談さえも空しいような
そんなときには
いつも心で叫んでいる
俺は決して
悪い人間じゃない
ただ考えが甘いだけこの鬱屈した思いが砂川の直截的な声で唄われると抗しがたく魅力的だ。「俺は決して/悪い人間じゃない/ただ考えが甘いだけ」のリフレインに不甲斐ない自分自身を重ね、忸怩たる思いに駆られた男たちも少なくなかった筈だ。
石田の訃報をいち早くミクシィで伝えた旧友
あきらもどうやらその一人だったらしく、こう述懐している。「彼が作った『最後の本音』は仕事で切羽詰まった時にいつも浮かんでくる曲だった」と。全くもって同感である。
「ソー・バッド・レヴュー」を実見する以前から「最後の本音」にはさんざん親しんでいた。贔屓にしていた「
金子マリとバックスバニー」がこれを十八番としていて、決まってステージ終盤に唄ったからだ。金子マリはこれを自分用の「おんなうた」として、「俺」を「あたし」に変えただけで、あとはそっくりそのまま熱唱した。
→金子マリとバックスバニー「最後の本音」1976年12月収録のライヴ・アルバム"We Got to ..."(1977)より。今となっては絶頂期の金子マリ&バックスバニーのステージを偲ぶ唯一のよすがだが、これが出たとき「まるで違う。ライヴの凄さを伝えていない」といたく失望したものだ。四十年近く経つとこれはこれで貴重な記録と思えてくる。少なくも彼女のヴォーカルの強度、第一期バックスバニーの優れた演奏能力をよく記録している。
この「最後の本音」も悪くない(どころか、相当に凄いのだ)が、実際のライヴはこの数層倍の迫力があり、聴衆は文字どおり圧倒された。因みに、収録が前提の公開演奏なので、一番の歌詞で禁忌に触れる「導くお前が/盲目でないなら」を「導くお前に/光が見えたら」と変えて唄っている。これは「ソー・バッド・レヴュー」1stアルバム(1976)も同じなので(
→これ)、金子マリだけの自主規制ではない。
1975年の暮のことと記憶するが、当時の遊び仲間の溜まり場「荻窪大学」で夜更かししていたら、かなり遅い時刻に仲間の中世君が酩酊して姿を現し、「
さっき新宿でコンサートを聴いたのだけれど、上田正樹&サウス・トゥ・サウスよりも凄い、途轍もない関西バンドが出演した。その名を『北京一とバッド・クラブ・バンド』という。ヴォーカル二人、ギター二人、キーボード二人の大所帯で、ギタリストがとにかく凄腕、歌い手のひとりは元漫才師らしい」と熱に浮かされたような昂奮口調で報告した。小生たちは「サウス・トゥ・サウスよりも凄い」という評言に思わず耳を欹てた。本当にそんな凄いバンドが実在するのか?
あとでわかったのだが、この「
北京一 (きたきょういち) とバッド・クラブ・バンド」こそは「ソー・バッド・レヴュー」の前身バンドであり、「凄腕」のギタリストとは山岸潤史、「元漫才師」とは北京一のことであった。
この中世君の強い推奨があったからこそ、翌76年春に日比谷野音の「スプリング・カーニバル」へ出向いたのだと思う。三十九年前のステージの印象はさすがにもう朧げだが、とにかく総勢八名のバンドが野音の舞台いっぱいに居並ぶさまは圧倒的に壮観だった、舞台正面には二人のヴォーカリスト、北京一と砂川正和が並び立ち、北の面白おかしく屈折した語り(「かたつむり」
→これ)と、砂川のストレートで乗りのいいシャウト(「銀太郎」
→これ)との好対照ぶりにひたすら瞠目した。噂のギタリスト山岸潤史の存在感にも震えがきた。キーボードの若い二人(国分輝幸とチャールズ清水)の腕達者ぶりも印象に残った。
満場総立ちのエクサイティングなステージだったが、ギタリスト石田長生の印象は「日本のジミヘン」山岸の陰に隠れてひどく希薄である──というか、音の上でも視覚的にもほとんど印象が残っていない。申し訳ないがそれが正直なところだ。
個性的な船頭が多すぎる「ソー・バッド・レヴュー」では石田のギターもヴォーカルも地味すぎて出番が乏しく、楽曲提供者という裏方的な役割に徹するほかなかったのではないか。どうもそんな気がする。
その後「ソー・バッド・レヴュー」が辿った軌跡はよく知られている。その年(1976年)の夏、レコード・デビューが決まった彼らは当時としては破格の待遇でロサンジェルス録音を敢行する。ところがその過程でメンバー間に亀裂が入り、修復不可能な状態で帰国、秋にライヴ録音を兼ねたツアーを行ったあと、あっさり年内に解散してしまう。バンドとしての活動期は、だから一年とちょっとしかなかった。今となっては老人の記憶のなかにしか存在しない幻のバンドだろう。
ばらばらになったメンバーはみな腕利き揃いだったから、その後も各人各様に活動を続けた。小生はあちこちのセッションに山岸潤史が客演するのを目撃したし、ライヴスポット「下北沢ロフト」で砂川正和とチャールズ清水がソロで唄うのを聴く機会もあった(後者はライヴ録音され、ロフト・レーベルからLP化された)。
そして、石田長生は・・・それがさっぱり憶えていない。彼が自らギターを弾きながら自作を唄う場に遭遇した記憶があるのだが、それがどこだったか、なんの機会だったのか、どうしても思い出せないのだ。それらのナンバーは地味でフォーキーな色彩が強く、「ソー・バッド・レヴュー」時代の楽曲(「最後の本音」「青洟小僧」「銀太郎」)のような輝きを放っていなかった気がする。あやふやな回想で申し訳ないが、感心しなかったからこそ記憶に残らなかったのだろう。
小生にとっての石田長生は、だから1976年の「ソー・バッド・レヴュー」の思い出に尽きている。あのとき砂川が声を限りに叫んだ彼の曲、とりわけ「最後の本音」は今なお耳の底で鳴り続けている。砂川が四十八歳の若さで自死し、石田が病に斃れた現在も、そしてこれからもずっと。わが人生が果てるその日まで。
The song is ended. But the melody lingers on. (Irving Berlin)