ふう、どうにかこうにか脱稿した。すっきりサッパリとは程遠いものの、ずっと二十日間も煩悶し続けてきた難題をようやく片づけて今やっと人心地ついている。とにかく延々と終わりのみえない暗中模索の執筆で、制限字数二万字のところ二万八千字強(本文二万一千、傍註七千字)も書いてしまい、しかも予定した内容の半分にしか到達できなかった。肝心な出来事はまだ登場していない。
何はともあれ今しがた末尾と、冒頭の導入部を仕上げてひとまず終了。ああ、しんど。長く暗いトンネルを抜けた感じ、明けない夜はないのだ、といった心境だ。
もう虚脱状態となって今夜はただ安らかに眠りたい。でもその前にプロコフィエフを一曲だけ。驚くべき名演奏が出現したのだ。
《プロコフィエフ: ヴァイオリン・ソナタ第一番 ほか/ダヴィッド・オイストラフ》
プロコフィエフ:
ヴァイオリン・ソナタ 第一番
ルクレール:
ヴァイオリン・ソナタ 第三番 ニ長調 作品9-3
ロカテッリ(イザイ編):
ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調「墓前に」
ヴァイオリン/ダヴィッド・オイストラフ
ピアノ/ヴラジーミル・ヤンポリスキー1955年12月9日、ボストン、シンフォニー・ホール
Sony RCA SICC 1872 (2015)
→アルバム・カヴァーこれは凄絶な演奏である。プロコフィエフの第一ソナタは1938年、スターリンの大粛清のただなかで書き始められ、よほど難渋したのだろう、そのまま第二次大戦中ずっと抽斗のなかで進捗を待ち続け、完成はようやく1946年になってのこと。その年オイストラフにより初演され、彼に捧げられた。
作曲者は初演者にこの曲の要諦を密かに口伝えした、すなわち第一楽章(と終楽章)の不気味に上下するスケール風モティーフを「墓場に吹く風のように」奏すべきだ、と(オイストラフ自身の回想)。本CDはその初演者による、世界初演から十年に満たない、作曲家の死のわずか二年半後の記念碑的な録音だ。
収録はオイストラフの最初の米国楽旅のさなか、シャルル・ミュンシュ伴奏指揮によるショーソンとサン=サーンスの高名な録音の数日前、同じボストンのシンフォニー・ホールで収録されたものだ。当時RCAはすでにステレオ収録を常としたが、室内楽や独奏曲はその限りでなく、本録音もモノーラル収録された。そのことが災いしたのだろう、これほどの名演の存在が永らく忘却され、今ようやくCDで陽の目をみたものという。小生も初めて聴いた。
オイストラフはこの第一ソナタを「自分のための作品」と位置づけ、最晩年まで世界中で演奏し続けた。一般には晩年のリヒテルとの共演盤が名高かろうが、ほかにも少なからぬ同曲異演奏がさまざまに残る。同じ1955年でいえば、彼は2月から3月に初の来日公演を実現させ、その初日(2月23日)に日比谷公会堂でこのソナタを披露している。当夜の演奏はニッポン放送が収録中継し、実況音源が奇蹟的にモスクワ、東京の双方に現存する(ともにCD化された)。当然ながら、このボストンでのスタジオ録音の解釈は東京での実演と基本的には同一だ。
これほどの名演を長く放置してきたレコード会社の罪は重いが、それより何より、本CDのライナーノーツ、これは一体どういう代物なのか。冒頭を書き写す。
プロコフィエフは生涯に2曲しかヴァイオリン・ソナタを書いていない。第1番は1938年から1946年と、完成まで8年もの年月がかかっている。フルート・ソナタの改作である第2番が完成されたのが1944年なので、完成は第1番の方が遅い。ダヴィッド・オイストラフに献呈され、初演も完成された年にオイストラフによって行われている。
ここまではまあいい。どんなプロコフィエフ概説書にも、ウィキペディアにだって書いてある周知の事実。今どき小学生でも容易に綴れそうな作文だ。この短い一節に「完成」を四度も繰り返す修辞の乏しさも小学生並。頭の悪い駄文の典型なり。
このソナタを理解するためには、プロコフィエフと祖国ロシアの関係を多少なりとも頭に入れておく必要がある。いかにも偉ぶった「上から目線」のご託宣だが、まあよしとしよう。問題なのは次に続く「祖国ロシアとの関係」を説いた文章である。心して読んでいただきたい。
プロコフィエフは1927年に革命を逃れて国外に退去し、アメリカ、次いでパリに住居を定めて10年以上祖国を離れた。しかし郷愁に駆られたのか1936年に9年ぶりに旅行で祖国を訪れ、その後1943年には本格的に祖国に帰っている。一体全体これはなんですか? 短文に「祖国」が三回も・・・確かにそれも酷いが、そんな些末な話では済まないのだ。一読わが目を疑い、おのが老眼の故かと目をこすりこすり字面をしかと眺めて呆れ果てた。プロコフィエフに関するライナーノーツをこれまで何十何百と読んできたが、ここまで杜撰で出鱈目な間違いだらけの解説文に遭遇したのは初めてである。よござんすか、ここは正しくはこうだ。
プロコフィエフは1918年に革命を逃れて国外に退去し、アメリカ、次いでパリに住居を定めて10年近く祖国を離れた。しかしソ連当局から招かれて 1927年に9年ぶりに旅行で祖国を訪れ、その後1936年には本格的に祖国に帰っている。これはあんまりだ。気が狂いそうになる。1927年に「革命を逃れて」国外脱出とは不可解だし、1943年の独ソ戦のさなか「本格的に祖国に帰って」ってアナタ、砲弾飛び交うなかでの帰国は危険すぎます。そもそも「10年以上」祖国を離れていて「9年ぶりに」一時帰郷って、それだと計算が合わないんですけど。
懸賞つき間違い捜しクイズだというのならともかく、いくらなんでもライナーノーツにこりゃないでしょ。こちとら金を払ったうえで読まされているのだ。
これを書いた執筆者の粗忽ぶりにも驚き呆れるが、読み返しもせず印刷に付したレコード会社の明き盲ぶりも許しがたい。この際ここに氏名を公表し猛省を促す。
牧田英二なる大馬鹿ライターは恥を知るべし、この文章で得た原稿料は直ちに全額返納し、五年間の自宅蟄居を厳命しておく。願わくば金輪際この種の音楽関係の仕事から手を引くよう宜しく申し渡す次第。
とにかくこのライナーノーツは屑籠へ直行。こんなもの、百害あって一利なしだ。
いかんいかん、折角の名演奏が台無しになったうえ、怒り心頭に発し夜も寝られやしない。牧田なる輩、この落とし前どうつけて下さいますか?