一昨日の執筆部分に誤りがあったので削除し、昨日その箇所に新知見を加味して梃入れ。今日もその続きだ。実在の人物が残した百年前の資料を繙き、こつこつ読み解く作業は、深い穴をひとり掘り進める作業にも似て、周囲の現実世界と隔絶された辛気臭く孤独な営みである。そこから紡がれる文章もまた、ともすれば現代との繋がりを失い、独りよがりになりがちで、読者の関心を繋ぎとめるのが難しかろう。それでも書くのは発注元の求めに応じてか、自分自身のためか、はたまた単に締切日が近づいたからなのか。そもそもこんな作文を誰が読むのやら。
原稿書きのお供に、引き続きレナルド・アーンのピアノ曲集。ただし、前のとは別のアルバムを取り出す。遙か昔にたぶん新譜で手にし、何度か耳にしたものの、永く書棚の奥に仕舞い込んだまま、架蔵することすら忘れていた不遇な一枚だ。
"Reynaldo Hahn -- Premières valses -- Le Rossignol Éperdu"
レナルド・アーン:
最初の円舞曲集(1898)
思い惑う夜鶯(抜粋、1898~1910)
第一組曲 Première Suite
05. 秋日和 Soleil d'automne
07. 二本の肩飾り Les Deux echarpes
08. 愛スル人ヨ! 愛スル人ヨ! Liebe! Liebe!
11. 真昼の歌 Chanson de midi
13. ネヴァーモア Nevermore
14. 似姿 Portrait
15. 鸚鵡を連れた子供 L'Enfant au perroquet
17. 陶酔 Ivresse
18. 馨しき芳香 L'Arôme suprême
22. ウラノス Ouranos
23. クロ=ザンドレの木立瑠璃草 Les Héliotropes du Clos-André
24. セーヌ川の夜の効果 Effet de nuit sur la Seine
25. 小運河ヲ抜ケテ(ヴェネツィア) Per i piccoli canali (Venise)
26. 幻影 Mirage
29. 悲劇的な智天使 Chérubin tragique
30. 絡んだ樫の木 Les Chênes enlacés
東方 Orient
02. 水煙草 Narghilé
03. ガラタの犬たち Les Chiens de Galata
旅の手帖 Carnet de voyage
01. ガラス絵の天使 L'Ange verrier
04. 踊る女牧神 Faunesse dansante
05. ジョワイユーズ公の婚礼 Les Noces du duc de Joyeuse
ヴェルサイユ Versailles
03. フローラの目覚め Le Réveil de Flore
04. 長椅子の夢想者 Le Banc songeur
06. 黄昏時の別れ Adieux au soir tombant
08. 無益な巡礼 Le Pélerinage inutile
ピアノ/カトリーヌ・ジョリー Catherine Joly1988年10月20、21、22日、パリ
Accord 200542 (1990)
→アルバム・カヴァーこのアルバムはレナルド・アーン録音史(というものがあるとして)でけっこう重要な位置を占めるものだ。魅惑的な小品集「最初の円舞曲集 Premières valses」の多分これは世界初録音だろうと思うし、くだんのピアノ曲集「思い惑う夜鶯」も、抜粋とはいえ、ほぼ半数の二十五曲が収められているからだ。にもかかわらず、このディスクが小生の記憶に跡を留めなかったのは、「夜鶯」のなかでただひとつ人口に膾炙していた「
エグランティーヌ王子の夢」を何故だか省いたためだろう。だから手に入れたのに仕舞い込んでしまった。勿体ないことをした。
カトリーヌ・ジョリーというピアニストはスイス国境近いベルフォール生まれ。パリ音楽院とエコール・ノルマルで学び、各地のコンクールで目覚ましい成果を挙げたというが、小生はまるで知らない人だし、その後の活動も耳にしない。いかにもフランス人らしい玲瓏たる音色が美しいが、先日ビリー・エイディの老練な演奏を聴いた耳には透明すぎて味気なく情趣に欠ける気がした。とはいえ、これはやはりアーン愛好家がすべからく座右に常備すべき一枚だろう。
《レナルド・アーン/ワルツ集「ひもときし手紙のリボン」》
レナルド・アーン:
円舞曲集「ひもときし手紙のリボン」(1915)*
■ 気まぐれな運命のたわむれ
■ アルビの黄昏
■ 想い出……未来……
■ 愛と哀しみの舞い
■ 甘き疲れ
■ 失われた指輪
■ 不安と希望の舞い
■ 開かれた鳥かご
■ 嵐の夜
■ くちづけ
■ 微笑
■ ただ一つの愛
歌曲「くちづけのゆえに」(ユゴー詩)**
ピアノ/アンリエット・ピュイグ=ロジェ Henriette Puig-Roget
ピアノ(第二)/高野耀子*
バリトン/河本喜介**1983年1月27~29日、東京、立川社会教育会館
フォンテック FOCD2541 (1983/1998)
→アルバム・カヴァーこんな珍しい曲目による録音がかつて日本でなされ、LPとして商品化されたばかりか、今なお現役でCDとして聴けるなんて奇蹟みたいだ。そもそもフランスの優れたピアニスト・オルガニストで名教師でもあるピュイグ=ロジェ女史(その名は昔々フォーレのレクイエムやサン=サーンスの第三交響曲のオルガン奏者として馴染深い)が1979年から91年まで長きにわたって日本で数多くの弟子を育て、いくつもの貴重な録音を残したこと自体が奇蹟的だったのである。
そのピュイグ=ロジェ女史の強い希望で日本録音(恐らく世界初)されたのが、二台ピアノのための小曲集 "Le Ruban dénoué" である。原題を「
ひもときし手紙のリボン」と和訳したのは本盤の表記に従ったまでで、字義どおりだと「(結び目を)解いたリボン」というほどの意味だろう。そのリボンが結わえていたのが書簡類だとはフランス語に疎い小生には知る由もなかった。へえ、そうなのか、手紙の束のリボンか、とLPで手にしたとき深く頷いたものだ。
白状するが、そのLPは外観に惹かれて手に取った。世にいう「ジャケ買い」というやつ。そこにはジャン・コクトー描くところのレナルド・アーンの肖像(「
"幸福の島" を唄うレナルド」と題されたデッサン)が大きく配されていたからだ。コクトー好きにはまさに猫に鰹節、持ち帰らずにいられなかった。生憎ネット上に画像が見当たらないが、わが旧著『12インチのギャラリー』にも収録したからご参照あれ(四十七頁)。記憶で書いてしまうが、このデッサンは晩年のコクトーが往時を懐かしんで綴った回想集『わが青春記』という本のなかに挿絵として収められていたと思う。今ここで聴いている再発CDも、同じそのデッサンがあしらわれているものの、デザインは大きく変更されている(まあ、こちらの出来も悪くはないが)。
さてその楽曲と演奏だが、これが実に絶品そのもので、言葉を失ってしまう。とにかく甘美な旋律が惜しげもなく開陳され、冒頭のワルツなどそのままプレヴェールのシャンソンになってしまいそうなほど。ただ溜息をつくばかりの三十六分半なのである。こういう洗練の極みの音楽をわが貧しきニッポンに伝えてくれたピュイグ=ロジェ女史に深く頭を垂れるばかり。
末尾にアンコール風に歌曲が一曲、ひっそり収録されているのも奥床しい。曲そのものも美しいが、最後にピアノが「ひもときし手紙のリボン」と似通った旋律のワルツを奏でて終わるので、アルバムを締めくくるのにぴったりのやり方なのだ。なんという贅沢で行き届いた配慮だろう!
元のLPに収められていたピュイグ=ロジェ女史の解説文を久しぶりに読み返そうと、本CDのブックレットを繙くと、その文章がどこにも見当たらず、それどころか頁を捲ると雲古みたいに不快な悪臭が鼻をついたので慌てて閉じた。女史の文章を押し退けて新たに差し替えられたライナーノーツ、評論家を僭称する輩の凡庸きわまる駄文がその発生源なのは明らかだ。画龍点睛を欠くとはこのことである。