たしかあった筈だと思ったら、やっぱりあった。1977年4月29日に日比谷野外音楽堂で開催されながら、大雨で中断された "Spring Carnival" について、生々しい同時代記録が書棚の隅から見つかった。大瀧詠一ファンクラブ会報という名目で出ていたガリ版刷りの同人誌の第二巻第三号がそれである。
そこに掲載されたレポートによれば、当日予定された出演順は、山下達郎バンド→久保田麻琴と夕焼け楽団→チェイン・ギャング+妹尾隆一郎→山岸潤史スーパーグループ→サディスティックスだった由。以下にその顛末をこの記事から書き写す。歴史資料としての重要性に鑑み、無断転載をお許しいただきたい。
しかるにホトケ・・・じゃない、チェイン・ギャングの途中で大粒の雨がザパーッと降り出し、おまけに恐怖の雨男=上田正樹が特出した途端にみな狂気の集団と化し、必死にキー坊に触れようとするのだ。ベイシティローラーズか ごう☆しろみか、ってなもんやで。おとろしかった・・・。けちらされないようにこっちも防衛に必死でひじと足をフルに活用して何とか地盤を死守した。いつも客があんなではキー坊も疲れるだろうと同情してしまったりもするけどあの人の考え方がそういう暴力的なのり方を肯定している面があるから余計ああなるのよね。帰りに地下鉄の入口でばったり会いましたがよく抜け出せたものです。
キー坊がおわるとまた客がややましになり、大粒の雨をものとするような段階はすでにすぎ、こうなりゃヤケよ。ホトケが、ハンチングをかなぐりすててあの細身でひとり雨の中をがんばっていたので、わしもがんばってみた。きっと感電していただろう。スズナベ氏は眼鏡をくもらせて「最高!」とがんばっていた。
ホトケ・・・ではなく(しつこく故意にまちがえる)チェインギャングさんがおわると一旦休止になり、黒一色のセノオ氏が客の応対に当たった。彼は断髪し、一部好評だったが私としてはあの長いカミの方がいやらしさがかくれてよかったと思うのだ。(セノオがきらいでいってるんじゃないのよ。いっとくけど。)
彼は顔に棒を立ててみせ、シュプレヒコールをそそのかし、マイクなしでハープを吹き、しまいにはナルセの伴奏で、とびいりの女性と野球ケンをしはじめる有様。ついには両人上半身裸とあいなった。どうせやるならてっていてきにやるべきよねぇ、あの際。ずぶぬれになりながらの彼の、あのエンターテインメントの精神(野球ケンはまあ別にしてね。あれは好きでやったんだから)にはアタマが下がった。関西系の人はみなわりとこの傾向があって、のりがきついというかアホというか金取ってるんだからできる限りのことはする、という感じで、ステージからみおろしているのでなく一体となっておる。東京の人、特にシティ・サウンドというかティンパン系とかあのへんはひっくりかえってもここまでアホにはなれない。アホになれるというのはいいことだ。[中略]で、ホトケもおわったし(しつこいかしら)全くはじまりそうもないし、踊れないと寒さがミにこたえてきたので帰ったが結局中止だったらしい。あのままもしつづいていたら次の山岸はこの上なくのったことはたしかで、そうなるとサディスティックスはよほどがんばらないとしらけ鳥か修羅場だっただろう。
P.S. すずなべさん、ところ天ごちそう様でした。一同、礼。
記事は無署名だが、内容と文体から推してファンクラブ会長だった後藤明子さんの執筆と知れる。あらずもがなの註釈を加えておくと、文中に頻出する「ホトケ」とはブルーズ・シンガーの永井隆(ウエストロード・ブルース・バンド→チェイン・ギャング→ブルーヘヴン)のこと。後藤さんは永井隆の熱烈なファンだったのが文章からも偲ばれよう。「キー坊」とは言うまでもなく上田正樹の愛称である。降りしきる雨のなかで「
眼鏡をくもらせて『最高!』とがんばっていた」スズナベ氏とは、何を隠そう、弱冠二十四歳の不肖ワタクシにほかならない!
さて当日の三組目「チェイン・ギャング」のステージのさなか、いきなり上田正樹が飛び入りで参加して唄った、とあるのには驚いた。この件を全く失念していたからだ。キー坊のライヴにはこの時期、小生は同じ野音(サマー・ロック・カーニバル、1975年)でも、あちこちの学園祭(高千穂商科大、明治大)でも体験しているから、この日の光景が特段に記憶されはしなかったのだろう。
上田正樹のステージが昂奮の坩堝と化すのはいつものことで、彼が登場するや否や聴衆が「
みな狂気の集団と化し」、誰もが我勝ちに舞台下へと殺到し「
必死にキー坊に触れようとする」阿鼻叫喚のさまを、筆者の後藤さんはちょっと醒めた目で「
いつも客があんなではキー坊も疲れるだろう」と記すところが秀逸である。
そのステージのさなか、俄かに雨が降り出して、チェイン・ギャングの出番がどうにか済んだところでコンサートは中断される。そこからあとの成り行きについて小生の朧げな記憶に間違いはなかった。これに続く山岸潤史スーパーグループとサディスティックス、両バンドの出番は結局なかったのである。
土砂降りの雨のなか帰るに帰れず、客席でずぶ濡れのまま待ち続ける聴衆を少しでも愉しませようと、「
黒一色のセノオ氏が客の応対に当たった」くだりは、我が記憶ともピッタリ符合し、なかなかに感動的だ。舞台に再登場した妹尾隆一郎は即席で曲芸を披露し、客席にシュプレヒコールを呼びかけ、ハーモニカを「
マイクなしで」吹き鳴らし、挙句の果ては(次に出番が控えていた)「ナルセ」すなわち(バックスバニーの)鳴瀬喜博のベースを伴奏に、飛び入りの女性客と野球拳までやってのけたのだ。信じられぬことに「
ついには両人上半身裸とあいなった」。全くもって70年代とはなんと大らかな時代であったことか!
常々ずっと思っているのだが、この会報は1970年代後半の都会的な対抗文化のあれこれを独自のやり方で受容し、旺盛な好奇心をもって堪能したヴィヴィッドな体験記録として、ちょっと比類のないミニコミ誌なのである。
大瀧詠一の公認ファンクラブ誌 "Furred Vapor" として1976年春に創刊されながら、同誌にはMr. Niagara の話題は殆ど全く登場しない(よくそんな非常識が通用したものだ)。爾来この会報は「ひまじんくらぶ」と標題を改め、時に「闲暇人倶乐部」「HIMA」「el espacio」などと名を変えながら78年末までに二十五冊ほど出た(80年夏頃に番外で「ひまくら」なる別冊が出ている)。
会長の後藤さんや会計の斎藤さんをはじめとする(主として)女性執筆陣が興味の赴くままにリアルタイムで遭遇したライヴや映画や本について思い思いに寄せたレポートは、未熟なところもあるとはいえ、鮮やかに生々しく東京のポップ・カルチャーの諸相を映し出していて、読み返して興味が尽きないものだ。
かてて加えて、同誌には折に触れて矢野顕子、大貫妙子、難波弘之、駒沢裕城、布谷文夫、永井隆、妹尾隆一郎らのロング・インタヴューが掲載されているのが重要である。いずれも他で読めない肉声の本音トークが開陳され、貴重極まりない時代の証言となっている。とりわけ、本業のキーボード奏者(当時は金子マリ&バックスバニーに所属)の傍らSF作家としての顔をもつ難波弘之は、この会報のため「本狂いナンバのコレクションより」なる出色の自伝的読書案内を連載した。
会報「ひまじんくらぶ」は粗末な藁半紙に、当時すでに廃れつつあったガリ版で刷られた。発行部数は知れたもので、恐らく数十部だったろう(上に記事を引いた号には「限定43部」とある)。全冊が揃って今なお保存されているのは、この小生のを含めても数組に過ぎないのではないか(昨年たまたま連絡のとれた会計役の斎藤さんの手許にも一揃い大切に残されている由)。
三十数年の歳月を経て、用紙はすっかり黄変し、綴じたホッチキスは錆びついてしまった。70年代の稀少なドキュマンが早晩ぼろぼろに滅んでしまいかねない。どこかの誰かが覆刻してくれないだろうか。それには発行人だった会長の後藤さんの許諾が必要になるが、その彼女とはすでに音信が途絶えて久しいのである。