真夜中を過ぎて今日は五月の第二日曜日。巷では母の日と呼び慣わす。疾うに実母と義母とを喪い、子も孫もいない我が家にはまるきり縁遠い行事だが、それでもこの日くらいは母の恩を遙かに偲ぼう。
"Magdalena Kožená / Songs My Mother Taught Me"
モラヴィア民謡: 私が苺の木だったなら
ヤナーチェク: 歌によるモラヴィア民俗詩 より
■ 小さなベンチ
■ 小さな林檎
■ 楽士たち
ドヴォジャーク: ジプシーの歌 より
■ わが母の教え給いし歌
■ 弦は調えられた
■ そして森はしんと静まり返り
シュールホフ: チェシーン地方の民謡と舞曲 より
■ 娘が牛に草を食ませていた
■ 私が母さんにだっこされたとき
■ おいでよ、僕の荷車にお乗り
ペトル・エベン: リュートの歌*
■ 逢わずに愛するなんて
■ 私はあえて求めない
■ この美しき春を目にしたとき(ロンサール詩)
■ 神様、別れのなんと辛きこと
■ 初めて貴方を知ったとき
■ 私は恋人を喪った
ヤーン・ヨゼフ・レスラー: 遙かなる恋人へ(ゲーテ詩)
ノヴァーク: 心のお伽噺
■ 憂鬱の唄
■ 夢なのかしら?
■ 夕べ
■ 秋の気分
■ 一日が終わると
ドヴォジャーク: 君が死んだ夢を見た ~夕べの歌
ドヴォジャーク: モラヴィア二重唱曲集 より**
■ 指輪
■ 囚われ人
マルチヌー: 二頁の歌曲集
■ モラヴィア娘
■ 隣の厩
■ 希望
■ 夜回り男
■ 秘めたる恋
■ 路傍の十字架
■ ズヴォレンの若衆
ヤナーチェク: シレジアの歌(ヘレナ・サリホヴァー収集による) より
■ おや、夜鶯はなんと
■ 黒森で
メゾソプラノ/マグダレナ・コジェナー
ソプラノ/ドロテア・レッシュマン**
ピアノ/マルコム・マルティノー
ギター/ミヒャエル・フライムート*2007年3月、ミュンヘン、バイエルン音楽スタジオ
Deutsche Grammophon 477 6665 (2008)
→アルバム・カヴァーこのアルバム標題は明らかに、収載されたドヴォジャークの有名な歌曲 "Kdyz mne stará matka" に因むが、全体としては母ものというよりも歌手コジェナーの「母国」チェコ、より正確には彼女が生まれ育まれたモラヴィア(生地ブルノ)への愛着と郷愁が滲み出た個人的なアンソロジーといえるだろう。
チェコ歌曲に疎い小生には猫に小判だが、鄙びたなかに微妙な陰影のある唄たちに心かき乱される。ヤナーチェクが幻惑的なのは言を俟たないが、マルチヌー、シュールホフも珠玉の如き小品揃い。ことのほか胸に沁みるのはギター伴奏によるペトル・エベン Petr Eben (1929~2007)の恋歌集だろうか。
バロックからフランス近代歌曲まで巧みに歌いこなすヴァーサタイルなコジェナーが、自らの出自を確認するように、慈しみながら唄った愛唱歌集といった趣の一枚。"Love Songs" と題されたドヴォジャーク+ヤナーチェク+マルチヌー歌曲集(
→これ)の姉妹編として、繰り返し玩味すべきアルバムだろう。
声そのものから母を感じ取るにはコジェナーの歌唱はやや理知的に過ぎるという向きには、やはりドヴォジャークの「わが母の教え給いし歌」を含んだアルバムをお薦めしよう。これぞ母性の顕現というべきアルバムを。
"An Evening with Maureen Forrester & Andrew Davis"
ヘンデル: そなたは思い悩むか ~《ロデリンダ》
マーラー: 美しさ故に愛するのなら ~リュッケルト歌曲集
ドヴォジャーク: わが母の教え給いし歌 ~ジプシーの歌
レーガー: マリアの子守唄
パラディール: プシュケ
シュトラウス: 悪天候 ~五つの小唄
シューベルト: ムーサの子
シューマン: 月夜 ~リーダークライス 作品39
伝承曲: シスター・メアリー
伝承曲: リトル・ボーイ
伝承曲: ブンバディブン
ソーゲ: クレオールの子守唄
ジョン・ジェイコブ・ナイルズ: 低地の娘
ハワード・ブロックウェイ: 老いた家政婦の唄
シリアス・ドーハティ: 鳥と獣
フランス民謡(ブリテン編): 地に人あり
コントラルト/モーリーン・フォレスター
ピアノ/アンドルー・デイヴィス
1985年、トロント
Fanfare DFCD 9024 (1987)
→アルバム・カヴァー一度も生を聴く機会を得なかったのがつくづく悔やまれるが、こうしてモーリーン・フォレスターの歌声をいつでも再生できる歓びは何物にも代えがたい。この不世出のアルト(コントラルト)歌手については五年前その訃報に接したときに追悼文を綴ったことがある(
→ここ)。その記事のタイトル──永遠に母なる声──こそが小生にとってフォレスターの歌唱のかけがえなさの本質である。
その際は手許のCDを続けざまにかけて「追悼演奏会」と称したのだが(
→ここ)、何故か選に漏れた一枚があるので、今日はそれを聴いてみた次第だ。
コジェナーのアルバムに較べるとコンセプトが弱く、単に愛唱曲を並べたというに過ぎない選曲だが、さすがにフォレスターの声と歌は深く優しく、包容力たっぷりだ。この声を聴きながら眠りに就けたら幸せである。今では英国指揮界の巨匠の仲間入りを果たしたアンドルー・デイヴィス卿も、当時はまだトロント交響楽団の新進シェフ。偉大なる母の懐に抱かれたかのように謙虚な伴奏者に過ぎない。