夕刻ちょっと上京して東京国際フォーラムへ。先々週の水曜日、たまたま通りがかった際に販売所で尋ねたところ、一枚だけ切符が売れ残っていると聞き、それならばと即断即決、買い求めておいたものだ。
東京国際フォーラム
ホールD7
19:45~20:30
コクトー=プーランク: 歌劇《人間の声》
ソプラノ/中村まゆ美
ピアノ/大島義彰
中村まゆ美はこのプーランクのモノオペラ(一人芝居ならぬ一人歌劇)を当たり役としており、1986年に東京日仏学院で舞台上演したのを皮切りに、実に三十年近く《人間の声》をライフワークとして取り組んできた。大先輩格の伊藤京子、少し下の世代の堀江眞知子(この二人の歌唱については以下を参照。
→コクトー=プーランクの「声」は日本語で)と並んで、日本人としてはこのオペラを最も数多く歌ってきた歌手ではなかろうか。
小生が中村さんの舞台に接したのは1995年7月11日(東京文化会館小ホール)。それから数えても二十年の歳月が流れている。ソプラノ歌手には年齢からくる声の制約がつきものなので、今の彼女がどの程度この至難なオペラを歌いこなすのか、懸念がなかったといえば嘘になろう。オペラのヒロインについて、台本作者コクトーは「
愛人に捨てられても当然と思えるような老いぼれ女は論外」とわざわざ註文をつけており、(失礼ながら)下手をするとその要請に背くことになりかねない。どうなることやらと半信半疑のまま着席して開演を待つ。
「演奏会形式」という触れ込みだが、ステージには二脚の椅子、電話機を乗せた小机が配され、下手にグランドピアノが置かれている。このオペラを上演するのに必要十分な道具立てであり、むしろ舞台上演と呼ぶに相応しかろう。小生の座席は後ろから二列目の左端だったが、二百席ちょっとの小空間だし、客席の傾斜も充分あって鑑賞にさしたる不都合はなさそうだ。やがて定刻から五分遅れで客電が落とされ、舞台照明が燈るとすでにピアニストは定位置に就き、主人公は床に横たわっている。電話のベルがけたたましく何度か鳴る・・・。
そのあと主人公は旧式の受話器ごしに、別れたばかりの愛人に向かってとめどなく語り(歌い)、愁嘆場を演じる。見え透いた強がりと痛々しい嘘、未練と絶望とが綯い交ぜになった心理的な独白が延々と続く。どんなソプラノ歌手をも怖気づかせる、真の実力が試される挑戦的な四十五分だ。
さすがに中村さんはこのオペラを隅々まで知り尽くしており、あらゆる台詞の細部に気持ちが籠もり、受話器を持ったままの立居振舞が極めて自然で、少しも無理を感じさせない。床に仰向けになったまま「
私っていつも頭を貴方の胸に委ねて寝ていたわね、そのときの貴方の声と今の電話の声とがそっくりだわ」と回想するところや、電話のコードを自分の首に巻きつけながら「
ほら、貴方の声が首の周りを取り巻いているわ、私の首をぐるりと」と絶望的な恍惚に浸る場面など、歌唱も演技もまさしく迫真の域に達していた。
二十年前に聴いたときの記憶はもう朧げだが、往時に較べると現今の中村さんの歌唱は声量も瑞々しさも幾分か減衰しているのは無理からぬところだ。ディクシオンもところどころ覚束なく、いかにも日本人のフランス語歌唱である限界が露呈する。にもかかわらず、この《人間の声》はやはり天下一品だという気がするのは、ひとえに彼女の表現の真率さ、すっかり身についた演技の練達の故であろう。幾多の舞台を身をもって経験し、年輪を重ねてきた円熟の成果がここにある。
終わってしまうと、あっという間の四十五分間だった。
1986年の初上演時からずっと共演してきた大島義彰さんのピアノ(1995年の公演も彼の伴奏だった)は、プーランクのイディオムを見事に手中に収めたうえ、随所で絶妙な間合いが仕掛けられていて、申し分のない出来映え。永年にわたるご両人の共演記録がCDや映像で残らないのはなんとも残念な気がする。