(承前)
それでもプロコフィエフは状況には楽観的だった。帰国に際して彼が当局と交わした約束は基本的に守られている。家族と暮らすための安楽な高級アパートメントが支給されたし、パリ時代と変わらぬ生活水準は保たれており、妻のリーナも相変わらずシックな装いで出歩いている。自分にはモスクワ市内で外車を乗り回す特権だって与えられている。海外への演奏旅行の自由も以前と同様に確保されている。確かにいくつかの企ては暗礁に乗り上げたが、新作がなかなか演奏に至らないのは世の常、欧米にいた頃だって同じ苦汁を何度も甞めた。
プロコフィエフには来るべき楽しみなプロジェクトをいくつも抱えていた。当代随一の演出家フセヴォロド・メイエルホリドが次のオペラでぜひ一緒に仕事をしたいと言ってきている。ソ連が世界に誇る映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインからは映像と音楽が完全に一致する画期的な歴史映画を共作しようと誘われている。いずれも他の国では想像もできない魅惑的なコラボレーションになるはずだ。なんといってもソ連における演劇と映画は今や世界で最高の芸術水準にあるのだから。
この間、プロコフィエフ家では夫婦仲に亀裂が入り、次第に関係が冷え込んでいった。見ず知らずの異郷で血も凍る大粛清に遭遇した妻リーナの不安と動揺は想像するに余りあろう。1938年に夫妻が欧米に演奏旅行(結果的に最後の外遊となった)に出た際、各地でたまたま面会した者たちは異口同音に「いつもの陽気な彼らではなかった」「まるで別人のようだった」と証言している。
そして39年6月、メイエルホリドが逮捕される。これに対してプロコフィエフがいかに反応したかは記録がない。その一か月後、今度はメイエルホリドの妻で大女優ジナイーダ・ライフが自宅で何者かに惨殺された。プロコフィエフはたまたま不在だったため、妻リーナは半狂乱になりながら旅先の夫に第一報を書き送った。冷静沈着なプロコフィエフもさすがに動転し、返信に「ジナイーダになんという惨事! 哀れな V. E. (=メイエルホリド)!」と本心を吐露している。
その三か月後の1939年10月、プロコフィエフに全ソ放送委員会から新作の依頼がまたもや舞い込む。
注文の内容はカンタータ、それもヨシフ・スターリンの六十回目の誕生日を祝うためのカンタータだった。誕生日は12月21日。当日これをソ連全土に向けてラジオ放送するという。期日までわずか二か月という急な注文だったが、誰がこの依頼を断わることができようか。ましてプロコフィエフは今や「ソ連人民の敵」と親密に交わった非国民と看做されかねない危うい立場にある。なんとしてもこのカンタータを立派に仕上げてスターリンと国家への忠誠を示さねばならぬ。演奏禁止になった二年前の革命二十周年記念カンタータの轍を踏むわけにはいかないのだ。
こうして完成したカンタータ「
乾杯 Здравица」はつつがなく当局に受け入れられ、スターリンの六十回目(正確には六十一回目)の誕生日にめでたく放送初演された(ニコライ・ゴロワーノフ指揮)。プロコフィエフがこの「追従作品」を精根を込めて創り上げたことは明らかだろう。今では滅多に演奏されない作品(当然だ!)ながら、ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルは後年このカンタータを「プロコフィエフ最良の作品のひとつだと断言できる」とまで讃えた。
この曲に対するリヒテルの称賛が決して皮肉でも過褒でもないことは、音楽を聴けばわかる(
→ロジェストヴェンスキー指揮による演奏)。
(次につづく)