このところ毎夕のように西の夕空に目を凝らし、金星と水星の大接近をじっくり観察した。一昨日は東京からの帰りにJRの高架駅のホームから、昨日と今日は自宅のヴェランダで。連日のように晴天が続いたので、天体ショーを心ゆくまで愉しむことができた。これまで水星を一度たりとも実見できなかったので、ここ数日間の体験はまさしく無上の歓び。このうえない眼福である。
ところでひとつ前の記事で、かのコペルニクスさえも生涯で一度も水星を観る機会がなかった、という名高い逸話を紹介した。少年時代に野尻抱影の本で知って以来、ずっと心の奥底に蟠っていたエピソードであるが、果たしてこれは実話なのだろうか。どこで聞き齧ったのかは忘れてしまったが、老天文学者は死の床でそのことを深く悔やんだ──という、まことしやかな顛末を忘れがたく記憶している。
ちょっと気になったので調べてはみたものの、この逸話の真偽のほどは容易に確かめられない。手元にあるコペルニクス邦語文献では、彼が水星を目にしたことがなかったと断定する記述はどこにも発見できなかった。
参照したのは以下の数冊である(最後のは評伝でなくフィクション)。
■ 山本一淸 『コペルニク評傳』 恒星社、1943
■ アンガス・アーミティジ/奥住喜重訳『太陽よ、汝は動かず』 岩波新書、1962
■ ヤン・アダムチェフスキ/小町真之・坂元多訳『ニコラウス・コペルニクス その人と時代』 日本放送出版協会、1973
■ アーサー・ケストラー/有賀寿訳『コペルニクス』 すぐ書房、1973
■ ジョン・バンヴィル/斎藤兆史訳『コペルニクス博士』 白水社、1992
どの本にも等し並みに、畢生の大著『天球の回転について』(いわゆる『回転論』)の最初の一冊が届けられたとき、コペルニクスはまさに死の床にあった、という(これまた有名な)エピソードが申し合わせたように登場するが、一度も水星を見ず仕舞だった(そしてそれを慨嘆した)話は全く出てこない。
ただし、諸家が口を揃えて説くところによれば、コペルニクスは後継世代のティコ・ブラーエやガリレオ・ガリレイとは異なり、自ら天空に目を向けて緻密な観測を積み重ねるという実践的なタイプの天文学者ではなかったらしい。むろん折に触れて天体観測を行いはしたものの、その回数は多寡が知れており、数百頁を超える膨大な『回転論』のなかで、彼自身による観測記録は僅か二十七を数えるのみ。山本一淸の評伝の巻末にそれらが列挙されているが、月蝕や金星・火星・木星・土星の観測記録はあるものの、水星についてはひとつも見出せない。
だからコペルニクスは水星を見たことがなかったのだ、と言い切ってしまうのは早計だろうが、山本氏も傍註で「
只、水星は生涯に一囘も觀望せざりしものの如し」と学者らしい慎重さでそっと書き添えている。
この問題について更に詮索を進めていたら、米国のスミソニアン天体物理観測所(Smithsonian Astrophysical Observatory)がネット上に無料公開しているデータベースで、興味深い論考が読めるのを発見した。
題してズバリ「
コペルニクスと水星 Copernicus and Mercury」。1892年に研究誌 "The Observatory" にW・T・リン(William Thynne Lynn)なるグリニッジ天文台の天文学者が投稿したごく短いエッセイである。
冒頭いきなり筆者はこう切り出す。「
天文書を繙いていると、老いたコペルニクスが死の床で、最内周を廻る惑星である水星を一度も観られなかったのを悔やんで溜息をつく憂鬱な光景にしばしば遭遇する」。
そうか、やっぱりそうだったか。「水星を見ずに終わった」というコペルニクス伝説は19世紀末の時点ですでに広く流布しており、多くの書物がそのように記述していたというのである。
それではこの伝説はいつ、どのようにして生まれたのか。筆者によれば、発端はどうやらコペルニクスの『回転論』中の記述にあるらしい。すなわち、惑星の運動を論じた第五巻で、コペルニクスは古代の天文学者(=プトレマイオス)が観測を行なったナイル河畔(=アレクサンドリア)に比べ、自分の住むヴィスワ川流域は格段に湿気が多く、晴天に恵まれないと愚痴ったのち、
[...] ac insuper ob magnam sphaerae obliquitatem rarius sinit
videre Mercurium.
「
そのうえさらに、天球の大きな傾きにも災いされて、水星は稀にしか見られない」(拙訳)と恨み言めいて述べる。ここで云う「天球の傾き」とはつまり地軸の傾斜を指し、彼の住むバルト海沿岸の高緯度地帯では黄道(太陽や諸惑星の天球上での進路)が地平線近くに低く傾いていることを意味しよう。太陽からの離角が小さい水星を朝夕に観測するには地理的に極めて不利だというのだ。
このように言い訳じみた修辞を重ねたうえで、コペルニクスは同時代の別の天文観測家二人による水星の観測記録を援用しつつ論を進めていく。
自分の観測記録を提出できなかったのだから、コペルニクスには水星を観る機会がなかったのだと想像できなくもないが、彼はただ単に不利な条件下での自分の観測データに自信がもてず、より信頼性の高そうな別人の数値を引いただけかもしれない。このあたりの真相はもはや藪の中というほかない。
さて、先のW・T・リンの所論では、『回転論』のこの箇所がフランスの高名な天文学者
ピエール・ガッサンディによる最初のコペルニクスの伝記(1654刊)に引用されて広く流布したのがそもそもの端緒だとする。それを後世の論者たちが「水星は稀にしか見られない」→「水星を見る機会が全くなかった」というふうに誤読・拡大解釈し──
フランソワ・アラゴの著作(
Astronomie populaire, 1864刊)には「その惑星(=水星)を観られぬまま死を迎えることになったコペルニクスの嘆き」なる一節がある由──、いつの間にか「水星を見ずに終わったコペルニクス」伝説がまことしやかに語られ定説化した、というのが事の次第らしい。
何はともあれ、ここ数日の夕暮れ時は水星の存在をこの目で確かめるのに正にうってつけ。コペルニクスならずとも、目を凝らして西の夕空を仰ぎ見たくなる美しくも壮麗な眺めなのだ。こんな機会は一生のうちで何度とないだろう。