今日は一月七日。昨日たまたま近所の八百屋で見つけておいた春の七草を粥に仕立ててもらって食する。味付けはごく薄く、鶏肉を少々と、それに残り物の餅が入っていて、仄かな早春の香りが床しい。ああ、やっと人心地ついた。
ここ数日はちょっとした塗炭の苦しみ。短いエッセイの締切が迫ったのに、冒頭がどうにも書き出せないのだ。テーマは前々から決まっていて、横浜美術館で開催中の「ホイッスラー展」出品作の《
ノクターン:青と金色──オールド・バターシー・ブリッジ Nocturne: Blue and Gold ─ Old Battersea Bridge》(1872~75頃
→これ)を紹介するというもの。よく知られた代表作だし、だいぶ前になるが実物を所蔵元のテイト・ブリテンで拝んだこともある。
それなりに準備はした。昨年末に実地検分を済ませ、カタログもじっくり熟読し、重ねて一昨日にも展覧会を再訪した。展示室はほどよく空いていたから、当該作品を穴のあくほど凝視してきた。それなのに、いざ作文に取り掛かろうとすると、考えが千々に乱れて纏まらない。全く嫌になってしまう。
あれこれ思い悩むうち、意外な発見もあった。執筆内容とは殆ど絡まないのだが、この絵は明治時代から我が国でも知られていて、当時の知識人たちの間でホイッスラーの美学「唯美主義」がいろいろと話題になっていたらしい。
例えば詩人の蒲原有明(1875~1952)は1910(明治四十三)年2月というごく早い時期に、とある随想のなかでホイッスラーの作品に触れて、持ち前の浩瀚な知見を惜しげもなく披瀝している。末尾の一節を引く。
兩國の川開きについてはこゝに多く云ふの必要を認めない。江戸時代の都會の趣味を集中した年中行事の名殘の一つも、今では殆どその美的精神を失つてゐる。夏の夜の都會の空も、耀くまゝに滅えてゆく精錬された色彩の雨の代りに、單調な電燈飾によつてその幽趣と諧調を破られてゆくかのやうに思はれる。光と色の微妙なるエフェクトを花火の技術から感ずるものは、その人自身すでに一個のアアチストである。韻律的な、そして即興的な技術の極致が暗碧の空に展開する。わたくしは花火の技術に於て印象主義の瞬時的な光影の眩惑を認める。
殺伐な火藥の修錬され整調された變形がこゝにある。それはまた人間の贅澤な誇と歡樂を示すと共に、滅えてゆく銀光のすゑに夏の夜の哀愁を長く牽く。
廣重の版畫が殘る。
そして英吉利は大倫敦のテエムスの河のほとりで、「青と銀とのノクタアン」が描かれる。バッタアシイ古橋のシルウェットを月夜の灰碧の空氣の中に捉へた畫人は廣重の版畫に對する鋭い感覺で張りきつてゐる。更にまたクレモン・ガアデンスの煙火戲の夜、崩れ落ちる五彩陸離たる火光を、いみじくも繋ぎとめた「黒と金とのノクタアン」を見よ。老ラスキンをして理性を失はしめた前代未聞の藝術がこゝにある。
官能の音樂、神經の詩がこれ等の夜曲の中に顫へてゐる。
わたくしは好んでホヰスラアの描いた藝術の氣分を想像の綾に織りまぜて置いて、これを鑑賞すると共に、飜つて廣重の古調をなつかしむ。
純藝術はどこまでも異端である。花火の畫を描いたホヰスラアは世間から山師と呼ばれてゐた。
「世俗と歡樂の途を異にしたこの人──異常なる模型の案出者──例へば火花に照らし出された顏面の如き奇趣ある曲線を、身邊に於ける自然の中に認めた人──この超然たる夢想家こそは第一の藝術家であつた。」── Ten o'clock.
(「仙人掌と花火のAPPRECIATION」──初出『屋上庭園』第二号)
いやはや蒲原有明は大変な物知りだ!
彼はまず両国の川開きを話題にし、年中行事の花火がもはや江戸情緒を失い、「
單調な電燈飾によつてその幽趣と諧調を破られてゆくかのやうに思はれる」と述べる。明治末年にして早くもそうだったのだ。花火を見物する側にも近代的な美意識が芽生えており、「
韻律的な、そして即興的な技術の極致」に「
わたくしは花火の技術に於て印象主義の瞬時的な光影の眩惑を認める」。そして往時の情緒を偲ぶものとしては、ただ「
廣重の版畫が殘る」。
・・・と、ここまでの叙述は実のところ「広重の版画」を導き出すための導入部、云ってみれば「枕詞」のようなもので、いよいよ蒲原は一気に本題へと突き進む。すなわち、エッセイの核心部分であるホイッスラーの芸術観へと話題を転ずるのだ。
かくして文章は唐突に「
英吉利は大倫敦のテエムスの河のほとりで」「
バッタアシイ古橋のシルウェットを月夜の灰碧の空氣の中に捉へた畫人」に言及する。ここで俎上に載った絵が《ノクターン:青と金色──オールド・バターシー・ブリッジ》であることは言を俟たない。文中「
青と銀とのノクタアン」とあるのは不用意な誤りかとも思われるが、この作品は発表当初 "
Nocturne in Blue and Silver No.5" と呼ばれていたそうだから、あながち誤記と決めつけるのは早計であろう。
続いて蒲原は畳みかけるように「
クレモン・ガアデンスの煙火戲の夜、崩れ落ちる五彩陸離たる火光を、いみじくも繋ぎとめた」絵画として「
黒と金とのノクタアン」を召喚する。云うまでもなく、これはホイッスラーが最も大胆に抽象化を推進した問題作《
黒と金色のノクターン: 落下する花火 Nocturne in Black and Gold: The Falling Rocket》(1875
→これ)にほかならない。
残念ながらこの絵は今回の回顧展には出品されず、小生も現物は未見だが、どんなホイッスラー画集にも載っている名高い作品だ。これはホイッスラーがロンドンの自宅にほど近いクリモーン公園(Cremorne Gardens)で実見した打ち上げ花火のアトラクションの様子を写したものだ。蒲原の「
クレモン・ガアデンス」以下の記述内容がいかに事実に沿ったものか判るだろう。
この絵を展覧会で目にした批評界の大御所ジョン・ラスキンは「公衆の面前に絵具壷をぶちまけて二百ギニーを所望する不埒な輩がいるとは思いもよらなかった(I never expected to hear a coxcomb ask two hundred guineas for flinging a pot of paint in the public's face)」と口汚く罵倒した。
この評言を自分への侮辱だとしてホイッスラーは訴訟を起こした。紆余曲折あって法廷はラスキンによる名誉棄損を認めて結審するが、支払われた慰謝料はほんの雀の涙だったため、裁判費用が嵩んだ彼は破産を余儀なくされた。
こうした一連の経緯についても蒲原はあらかた承知していたらしい。「
老ラスキンをして理性を失はしめた前代未聞の藝術がこゝにある」と喝破し、「
花火の畫を描いたホヰスラアは世間から山師と呼ばれてゐた」と断言する件りは、そのように推察するに充分な証拠であろう。彼は本当によく知っていた!
外遊体験のなかった蒲原は勿論ホイッスラーの実物は観ておらず、恐らく画集や美術雑誌のモノクローム図版のみから想像を巡らしたに過ぎない。しかしながら慧眼にも彼は「
官能の音樂、神經の詩がこれ等の夜曲の中に顫へてゐる」と正しく見抜き、「
純藝術はどこまでも異端である」とまで言い切る。
同時に彼はそこに浮世絵版画からの強い感化をも察知し、「
廣重の版畫に對する鋭い感覺で張りきつてゐる」ホイッスラーに共感するとともに、「
わたくしは好んでホヰスラアの描いた藝術の氣分を想像の綾に織りまぜて置いて、これを鑑賞すると共に、飜つて廣重の古調をなつかしむ」と率直に述べている。
最後の一文はちょっと謎めいている。「
世俗と歡樂の途を異にしたこの人──
異常なる模型の案出者──
例へば火花に照らし出された顏面の如き奇趣ある曲線を、
身邊に於ける自然の中に認めた人──
この超然たる夢想家こそは第一の藝術家であつた。」──当時の読者を煙に巻くような難解きわまる修辞だが、実を云えばこれはホイッスラーが行った講演からの引用である。
念のため、その原文を紹介しておく(蒲原の引用箇所は後半部分)。
In the beginning, man went forth each day – some to do battle –
some to the chase – others again to dig and to delve in the field –
all that they might gain, and live – or lose and die. – until there
was found among them, one, differing from the rest – whose
pursuits attracted him not – and so he staid by the tents, with the
women, and traced strange devices, with a burnt stick, upon a
gourd. –
This man, who took no joy in the ways of his brethren, who cared
not for conquest, and fretted in the field – this designer of quaint
patterns – this deviser of the beautiful, who perceived in nature
about him, curious curvings, – as faces are seen in the fire – This
dreamer apart – was the first artist. –
──Mr Whistler’s Ten O’Clock
Public lecture, Prince's Hall, Piccadilly, 20 February 1885.
いやはや、明治末年の詩人の博覧強記ぶりに恐れ入るばかりだ。遠い異国のブキッシュな審美家と云えば正にそのとおりだが、現物を一度も観ずにここまで深く洞察できれば天晴れであろう。脱帽するしかない。
それに引き比べ、ホイッスラーの夕景画を間近で矯めつ眇めつ眺めながら、気の利いた評言ひとつ吐けない我が身の浅学菲才に嫌気がさした次第である。