昨日たまたま觀劇した歌舞伎芝居の餘韻がずつと谺してゐて、滓のやうに胸の奥深く沈澱する。物凄いものを見てしまつたといふ感銘とたじろぎが翌日になつても一向に薄れないのだ。
國立劇場 十二月歌舞伎公演(第二百九十二囘)
通し狂言 伊賀越道中雙六 (いがごえだうちゆうすごろく)
平成二十六年十二月二十五日(木曜) 十二時~
國立劇場
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序幕 相州鎌倉 和田行家屋敷の場
二幕 大和郡山 譽田家城中の場
三幕 三州藤川 新關の場
同 裏手竹藪の場
四幕 三州岡崎 山田幸兵衞住家の場
大詰 伊賀上野 敵討の場
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唐木政右衞門/中村吉右衞門
和田志津馬/尾上菊之助
山田幸兵衞/中村歌六
政右衞門女房お谷/中村芝雀
幸兵衞娘お袖/中村米吉
幸兵衞女房おつや/中村東藏
澤井股五郞/中村錦之助
譽田大内記/奴助平/中村又五郞
和田行家/夜囘り時六/嵐橘三郞
櫻田林左衞門/大谷桂三
捕手頭稻垣平七郞/中村歌昇
石留武助/中村種之助
池添孫八/中村隼人 他
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淨瑠璃/竹本六太夫(三幕)、竹本道太夫、竹本葵太夫(四幕)
三味線/鶴澤公彥(三幕)、豐澤勝次郞、豐澤長一郞(四幕)
數日前たまたま家人が讓り受けた切符が二枚あり、ちやつかり小生も相伴に預かつた次第である。演目に關する豫備知識は「荒木又右衞門の仇討を扱つた芝居らしい」といふ程度でほゞ皆無。随分前に同じ外題を文樂で觀たといふ家人とて、大まかな筋しか憶えてゐないといふ。そんな體たらくなので、ロビーでプログラム册子を買ひ求め、幕内瓣當を頰張りながら俄か勉强。
數多くの登場人物が錯綜する筋書は一讀さつぱり頭に入らなかつたが、要するに父を殺害された志津馬(菊之助)が仇討を志し、義兄の政右衞門(吉右衞門)が助太刀を買つて出るという筋立だ。「雙六」とは場面が次々と移り行くの意か。
元々の淨瑠璃版《伊賀越道中雙六》(近松半二作、天明三年)は全十段から成る大作であり、現今の歌舞伎上演では其處から適宜名場面を抜粹して「通し狂言」と稱してゐる次第。わけても第六段「沼津」は主役二人が不在の場面にも關はらず人氣が高く、單獨に抜き出して上演される機會も多いのだとか。昨秋に國立劇場で坂田藤十郞らが上演した際も「沼津」の段を中心に据へ、全七場で構成したさうな(直前には文樂公演でも同作品が全段通しで上演された由)。
ところがプログラム册子に據れば、最も緊迫感に漲り、物語の展開上でも要を成す第八段「
岡崎」が歌舞伎上演では何故か省かれるのが慣例ださうで、戰後では昭和二十七年(新橋演舞場)、昭和四十五年(國立劇場)のたつた二度しか上演されてゐない。だから今囘の通し狂言は幻の名場面「岡崎」が觀られる千載一遇の機會なのだといふ。册子では前囘の上演、卽ち四十四年前の舞䑓を實見したといふ
橋本治さん(例の名高い駒場祭「男東大どこへ行く」ポスターの二年後だ)が此度の復活上演の意義を熱つぽい口調で縷々懇切に論じてゐる。
さて其の「岡崎」の段であるが、筋書は複雜を極めてゐる。
前幕の「藤川」(元の淨瑠璃版では第七段)で別々に關所破りを果たした志津馬と政右衞門とは、偶然の成り行きから岡崎なる關所役人の山田幸兵衞の家に辿り着く。志津馬は自らを澤井股五郞(仇討すべき張本人)だと僞り、前段で戀仲になつた幸兵衞の娘お袖と共に奥の部屋に匿はれる。政右衞門は追手に圍まれた窮地を幸兵衞に救はれ、兩者は曾て師弟の間柄だと判つて(政右衞門は幼少の砌り、別名で幸兵衞に劍術指南を仰いでゐた)互ひに舊交を溫め合ふ。
ところが幸兵衞は事もあらうに股五郞方に加勢してをり、相手が當の政右衞門だとは知らずに、股五郞陣營への後ろ盾となるやう願ひ出る。正體を見破られまいとする政右衞門は恩師の申し出を承諾せざるを得ない。
偶然とは重なる物で、二人が逗留する幸兵衞宅に政右衞門の別れた妻お谷(志津馬の實姉)が乳飮み子を抱いた順禮姿で訪ねて來る。ところが素性を隠し通したい一心の政右衞門は、降りしきる雪の中に妻子を放置した計りか、幼子を幸兵衞夫妻の眼前で無慘にも刺し殺してしまふ。
幸兵衞は政右衞門の眼に一筋の涙が光るのを見逃さず、其處から總てを察知した。我が子を殺しても本懷を遂げようと慾する弟子の眞情に打たれ、幸兵衞は股五郞の潜伏先を明かすと共に、正體の露見した政右衞門と志津馬の二人を快く送り出す。我が子を喪つて悲歎に暮れるお谷は、志津馬との戀路を諦め尼になる決意を固めたお袖と連れ添つて、交々涙に濡れながら旅立つ。
いやはや運命の絲が縺れに縺れ、偶然に繼ぐ偶然が重なつた擧句、凄まじい悲劇の大波に登場人物の誰もが吞み込まれてしまふ。何と云ふ陰慘さだらう。
仇討の爲とあらば如何なる犠牲も顧みず、肉親の殺害すら厭はないといふ論理の筋目は確かに現代人の理解を越えてゐようが、此れを荒唐無稽で殘忍至極な振舞と切つて捨ててよいものか。册子の中で橋本治は「岡崎」の暗さ、陰慘さは「
仇討ちといふ尋常ならざる行爲に突き進む内に一切が見えなくなつてしまふ、人間の哀しさ以外の何物でない」と喝破した上で、かう一文を締め括る。
「普通の人達」がその悲劇へ突き進む。突き進む内に、その人達が抱へてゐる「闇」が見えて來て、[中略] 人は「闇」を抱へて生きて行く。さうした不條理とも言ひたい人間ドラマが、雪の降る夜の家の中で粛々と進行する。夜の雪のやうにしんしんと暗いホームドラマが「岡崎」ではないかと思ひます。[原文新字新假名]
(未だ書きかけ)