基督降誕祭前夜だからといって不信心者にはさして意味はない。世間並に鷄腿肉のローストと砂糖を塗した獨逸菓子を買うには買ったが、何を寿ぐでもなく、ただ家族の無病息災を希うばかりである。
昨日の続きで窓硝子の掃除。いつの間にか土埃がこびりついて汚れていたのを念入りに拭ったら、見違えるほど綺麗になった。射し込む西陽が一段と美しく感じられる──今しがた家人からそう褒められた。
やり馴れぬ作業で少々疲れたので一息つく。先日来ずっと聴いている
ロベール・カサドシュ。今日はいよいよモーツァルトの協奏曲をかけてみたい。ただし定評あるジョージ・セルとの一連のスタジオ録音はどうにも無味無臭でさっぱり当方の琴線に触れてこないので、違う指揮者たちとの珍しい実況録音を試してみる。
"Robert Casadesus plays Mozart"
モーツァルト:
ピアノ協奏曲 第二十一番 ハ長調 K467*
ピアノ協奏曲 第二十三番 イ長調 K488**
ピアノ協奏曲 第二十四番 ハ長調 K491***
ピアノ協奏曲 第二十六番 ニ長調 K537****
ピアノ/ロベール・カサドシュ
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮*
ジャン・マルティノン指揮**
ピエール・モントゥー指揮***
デイヴィッド・ジンマン指揮****
フランス放送国立管弦楽団1960年9月23日*、1969年6月18日**、1958年9月24日***、1968年9月13日****、モントルーもしくはパリ(実況)
Music & Arts CD 1179 (2CDs, 2006)
→アルバム・カヴァーブックレットのどこにもそう明記されていないが、いずれもパリの国営放送局 RTF(Radiodiffusion-Télévision Française)が収録した音源に由来し、年代相応にまずまず良好な音質で聴ける(二十三・二十六番はステレオ録音)。カサドシュはこれらすべてをセル&クリーヴランドと正規録音している筈だが、演奏会場でのカサドシュには遙かに霊感と生気が漲り、ヴィヴィッドなモーツァルトを奏でていたのがよく判る。同世代の多くの演奏家と同様、彼もまた実演でこそ本領が発揮される音楽家だったのだろう。
云うまでもなくパリのオーケストラの力量はセルの手兵とは較ぶべくもなく、アンサンブルは些か弱体だし、癖のある木管楽器の音色に違和感を覚える向きもあろう。にもかかわらず、これらの演奏には即興的な感情の発露があり、独奏者と楽団の間に好もしい交歓が感じられるのだ。
指揮者たちの個性の差がくっきり顕れているのも面白い。
マタチッチのモーツァルトは珍しいが、予想どおり腰の据わった剛毅な解釈。カサドシュとの相性は水と油にみえてそうでもなく、むしろ相乗効果で品格ある演奏に仕上がっている。当時(60年代末~70年代初頭)の常任だった
マルティノンはさすがに楽団を手中に収めた安定した指揮ぶりで、控えめな伴奏に徹しすぎた嫌いがあるものの、この二十三番に関してはセルとの正規録音よりずっと心の籠もった演奏だ。
モントゥーとの二十四番は意外にも期待外れで、カサドシュとの呼吸も今一つ測りかねている趣。戦前から共演を重ね、肝胆相照らす仲だったのに、これはちょっと残念。思いがけず秀逸なのは「戴冠式」だろう。弱冠三十二の若輩ながら
ジンマンの指揮ぶりは頗る意欲的、細部まで覇気と配慮が感じられる秀演である。
いずれの演奏でも実況ゆえの小さなミスタッチや指の縺れがあるにはあるが、そうした瑕疵を勘定に入れても、これら四つの生演奏は録音スタジオでは十全に発揮されなかったカサドシュのモーツァルトの典雅な魅力をよく捉えていて、まさしく値千金の遺産というべきだろう。